【エッセイ】詩と学術とポッキリ
積ん読本を眺めてみれば、詩と学術本が目立つ。
終わりが見えないというか、読み通してもまた読むかもしれないと、思ってしまうからだろうなあ。
詩などは巧妙に、これを持って旅に出ようなんて帯文が付されていて、こんなこと言われたら捨てられないだろう?? ってなりますよ。
そりゃ持って旅に出たくなりますよ。
峠の四阿や湖畔の草原でぼんやり詩とか読んでみたいでしょう。
まあ詩を読むような優雅な旅でいられるかどうかは別問題。
だいたい疲れてすぐ寝ちゃっている気がします。
学術本は言語関係が多いですね。日本語の使い方、みたいな。
読み返すと思っているんですよね。一度読んだだけじゃわからなかったけど、二回目読んだらわかるだろ、みたいな。
一時期はまって買い込んだから、やたらあるんですよ大野晋・著。
読み返すのか、どうか。読み返すまえから買い込んでいるのはなんなのだ。
まあ、買うメカニズムもうっすらとはわかります。
買うときにあるのは期待なんですよね。この本を読んだらもっとマシな文章表現ができるかも、という期待。変身願望、現実逃避。
だからこれはそろそろ切り捨てていきたい。自分で書ける以上のことは書けないんだと、そろそろわかっておきたい。
というか繰り返し読むってことは積ん読ではないのでは。
読んでいない本が積まれているから積ん読でしょう。
読み終えた本がいつまでも積まれている状況は、再読予定本みたいな。
そして再読の時は来ないのです。
とはいえですね、この部屋に越すときに書棚を買ったのですが、よくよくみれば撓っているんですよね。
無駄にキャスター付きのにしなければよかった。部屋のなかでゴロゴロ動かすわけなかったんだ。
積ん読消化しないとポッキリ折れる不安がなきにしもあらず。いや、あるんですよ。全く以てあるんですどう見ても。
というわけで積ん読消化はしなければならない。
なんとなく、今ある書棚に収まりきれない本は処分しようと決意して年末年始も作業を進めていたのだけど、原因は積ん読というより件の再読予定本だと判明してきたところです。
読んだら売ったりなんだりするけど、読むかもしれない本はどうしたらいいんだ。
読まないって決めてしまっていいのか、早いところ決断しないと。ポッキリの時が来てしまう前に。