【感想】労働者のための漫画の描き方教室
「漫画を描いて苦しい自分を変えるんだ」
釣られました。良いタイトルだし、良い表紙だなと思います。
忙殺されたり、なんとなく意欲がわかない毎日を送る中、人生を豊かにするための手段として身につけたい人は少なくない。
ましてSNSが発達した今、漫画で手短にメッセージを伝える手段は実際に見てもいるし、あんまり使いたくない言葉だけど承認欲求を満たす方法として憧れたりもする。
そんなものだから買ってしまった。
どうせ買っても漫画を描く気にはならないんだろうなあ、と思いつつ。
すごかったです。
これは、これはですね、まず漫画の本じゃないんです(漫画家でないと作者自身も言ってますし)。
そもそもどうして漫画家などという呼称が必要になるのか。
そしてどうして漫画を描く人が漫画家だけだと僕らは決めつけてしまっているのか。
そんな常識、子どもの夢がそのまま職業の名前の羅列になってしまっているようなこの国の常識を揺さぶるところから始まって、ぐいぐい読み進めてしまった。
表現は特殊技能ではない。むしろ生きる上で人は必ず何らかの形で表現をしている。
表現とは目的ではなく手段に過ぎず、その深奥には必ず、思考している自分自身が存在している。
何らかの悩みを抱いているときに、解決しようと動く人もいれば、全てを投げ捨てて逃避する人もいる。塞ぎ込んで、ただ時が全てを均すのを待つ人もいる。
その行動の全てが、思考した結果の表現だといえる。
思考しない人生は退屈で、それが過剰になれば死を招く。
この本が「労働者のための」と前置きされているのはまさにこのためだ。
時間がないから、他のことを考える余裕なんてないから。
その決めつけが、表現という手段を捨てさせてしまう。
人生はそんなものだと達観して、徹底的に無頓着になって、心に蓋をする。
その状況を打開する手段のひとつとして、漫画が提案される。
記号として人を描き、ストーリーを作ることができる。それでいて言葉を駆使し、行(コマ)間を想像させることができる。
本書の中であった、「漫画は『見る』ではなく『読む』と言う」との表現が印象深い。
漫画は言葉なのであり、他者に届けることのできるものだ。
忙殺される毎日の中で、それでも誰かに届けたいものがあるならば、表現のひとつとして「漫画」は十分に選択可能である。
だいぶ意訳した。
そもそもこの書籍、分厚い上に文字が細かく、内容も哲学めいていて、ぼーっと読んでいると難しい。
それでも漫画に対する認識が改められる快感があった。率直に言って感動した。
その感動をそのままに、放置してあったnoteアカウントを復活させて(結局ログインできず、新規作成になったけれど)、エッセイマンガを描いてみた。
やってみて気づいたことも多々あったのだけど、時間のあるときに継続して、もうちょっと練ってから言葉を選んで書いてみたい。だいたいタイトルと違っちゃうし。