雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

【感想】シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

 この「:||」はコロン「:」と2つの縦棒「|」で書いています。多くのweb記事に習いました。実際には楽譜に使われる反復記号ですね。
 左のコロン「:」を右に90度動かせば2つのiになりますね。これは今、書いているときに思いついただけなんですけどね。

 

 現実(リアル)の対義語は普通なら虚構(フィクション)だと思うのだけど、劇中ではイマジナリーを使う。こちらなら想像の意味になる。厳密には「想像的な」という形容(動)詞。名詞として使えば虚数「i」の意味にもなります。

「現実」と「虚構」なら虚⇆実の対義語ですが、「現実」と「想像」は対義語かな?

大辞林で想像とは「頭に思い描くこと」とある。

 頭に思い描くことの全てが現実と反しているわけではない。想像の中で現実のことを考えることもできる。想像することは現実と虚構のどちらも対象として同等に扱うことができる。


 現実を認識するのは自分ですね。

 自分にまつわる現実こそが現実的。他者が認識する現実(現在の心境や過去の出来事)を自分は想像するしかない。想像が及ばなければ現実感がないので顧みなくなり自分に害がある場合は攻撃対象となる。
 劇中で登場する「受け入れる」という言葉は、相手の過去から現在までの道筋に理解を示し手を差し伸ばすことを受け入れることと表現しているのだと思います。
 ところで現実が耐え難いものである場合、人は現実を受け入れることを拒む。拒んでいる人は現実から逃避したい。しかし現実はその人が生きている事実を基礎に目の前に立ち塞がる。はっきり言えば人間は現実から逃げることはできないので、現実を拒むとしたら想像の檻の中に籠ることになる。自分が掌握できる世界だけを抱え、その領分の中で生きて、自分だけを抱えて死ぬ。

 前半の第三村の場面はたくさんの現実っぽさに溢れていましたね。人物から外して使い古された道具や建物に焦点を当てるカットの多用は意図的な気がします。
 もちろんその道具や建物が使い古されていく過程は画面に映りませんが、塗装の剥げや傷凹みなどは使い手の存在を感じさせます。この場合の使い手は他人です。実際の私たちも同様の手順でこの世界の物体への他人の存在や影響を感じ、世界を受け入れている。

 おはようもありがとうもさよならも人に与える言葉です。一人きりでいるときに言葉はいらない。言葉が通じている限り、言葉を投げかけられたら反応をする。拒否も嫌悪も反応です。反応がある限り、その人は世界の中にいる。そのこと自体を拒むことはできない。

 劇中では首のない人(的な存在)がたくさん出てくるわけですが、首だけ吹っ飛んで身体が残るのってフィクション性そのものですね。顔が無くなると物になる。人として描かれていた存在が物体へと変化する。
 生命の認識に繋がる顔。次は動作。それが見えない場面でも例えば脚が揺らめいたり息遣いがある。そうして存在を知覚する。
「見えないもの」を「在るもの」として知覚する。これが想像の機能であり、想像上の殺害は逆にその存在の生命を際立たせる。

 あと復興について。
 冒頭のパリの復旧作業もそうだし、第三村の描写も元々の人が残した存在を感じさせる。というよりそれ無しにはなし得ない。
 完全なゼロからではなく元あったものを承継する。復興ですね。見えないどころか「元からなかったもの」を「在るもの」にすることはできない。
 想像だけで世界は成り立たないんですね。
 もちろん作品は想像の産物ですが、第三村の描写にリアリティを感じる(例えば子どもの突進を避けようとして足踏みするアヤナミとか)のは、元となる現実への理解度を感じるから。

 壊れた世界を元に戻すこと。これもひとつの反復といえる。まっさらな状態からあたらしい世界を作れるのは神だけで、人にはできない。世界に破壊が訪れたときに残された人々が抱く目標になり、まず目指すところは元あった世界を取り戻すことになる。コツコツと。

 もっと掘り下げてみる。

 虚構の中での復興はそのプロセスを飛ばして結果だけを見せることができる。

 結果に後から足される過去はストーリーの流れから切り離される。

 最後の方の過去の羅列は戯曲めいていて(戯曲なんて見たことないのにね)勢いに乗ったまま結果(=人格)を形成していく。ストーリーとして見せられる人格と羅列で形成される人格の違いはなんだろう。

 こんなことを言いながら観ている最中は爽快だった。ノリノリだった。「次は君の番だよ」と追い込んでくるシンジくん面白すぎるんだよな……

 他者の過去を次々と開陳していく主人公。大人の父も子ども(青年?)の父も同一存在として受け止められる。全てを暴いていった少年はストーリーの枷を外す。劇場だった。劇場版ってこういう意味だったのか。呆然としていると結構なんでも受け入れることができる。

 

 補遺1。

 何度も登場する覚醒の描写について考えてみるに、特に視覚的な作品内で登場する「覚醒」は作品における現実と虚構の境目になっている。「なんだ夢か」と人物が呟けば、その覚醒前の描写は全て夢(非現実)になる。

 覚醒を繰り返すことで現実と虚構のパワーバランスが崩れる。境目が曖昧になり、区別がつかなくなる。区別する必要もなくなる。

 

 補遺2。

 今日の今日まで一度もあの映画の名前もあの俳優の名前も一度も聞かなかったの本当の本当にすごいと思ったけどやっぱり最後はちょっと飲み込めてなくて、むしろあの街並みがCGだったら面白いのになって少し思った。

 

 そういえば私はアニメ版のときは園児なので観てないですけど、なんとなくは話を知っていて、いつそれを知ったかわからないくらいには染みついている。おかげで終わりにそれなりの(しがみついていられる程度の)理解度で立ち会えることができた。
終わりましたね。よかったです。