雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

2016.7.26

 一昨日、天井と床とを突っ張って支えるタイプの本棚を買った。棚板を2つ買ったが、付属のと1つを合わせたらいっぱいになってしまった。サイズは文庫に合わせてあり、九段ある。手持ちの文庫本を全部詰め込もうとしたが足らず、やむなく日本人作家のみを詰め込んだ。目測でだいたい1段40冊弱なので、350~360くらいは収容できるのではないだろうか。

 僕の部屋にはあと三台のスチール製本棚と、スチールラック型の棚が二つ、物置にしている木箱が二つ、あとは無理矢理つくった本を立てかけられる場所が二つある。冊数がいくつになるのかはわからない。管理しようと前々から思っているのに、実行する前にまた買ってしまう。未だ売ったことはない。昔漫画を勝手に家族に捨てられたことがトラウマになっている。『RAVE』と『うえきの法則』を捨てられたのをよく覚えている。

 文庫本を買い出したのはそう昔の話じゃない。初めて意識して「小説を買った」と思ったのは森見登美彦の『太陽の塔』で、高校一年生のときだ。何か本を読めと進路担当の先生が偉そうに言うものだから、スーパーマーケットの一角に構えられていた書店に行って選んできた。2007年頃の話。その書店コーナーはもうかなり昔に無くなった。ついでに言うと進路担当の先生も僕が卒業する前に突然亡くなった。今にして思えばもっとよく話を聞いてあげても良かったかなと思う。

 そこから本を買い集めるようになるまで時間がかかった。少なくとも大学四年生になるまでは、一年に一〇冊も読めば十分だった。森見登美彦は安定して読めていたが、『美女と竹林』が自分に合わず、以降長いこと倦厭していた。代わりに宮部みゆきに嵌まったが『パーフェクトブルー』の冒頭で嫌になってやめた。大学三年生の頃に『坂の上の雲』がテレビドラマ化されてそれで小説を読んだ。難しかったし半分ほどしか理解できていなかったと思う。司馬遼太郎はそのあと『燃えよ剣』を読んだ。二年くらい前の話で、このときは読み慣れていたらしく、じっくりと読み進められた。

 大学時代に話を戻せば、むしろ小説よりはブックオフで古い漫画をセットで買うのが楽しかった。特に『プラネテス』は嵌まって、一度全四巻を集め、今では疎遠になってしまった友達に借りパクされ、また四巻集め直した。今度は作者と声優によるオーディオコメンタリーも集められたので却って良かったと思う。幸村誠さんは想像以上に穏やかそうな声をしていた。

 その頃の本の読み方は、だいたいが2ちゃんねるまとめサイトで薦められているものを読む、というスタイルだった。とりあえず良いという評価がないと信頼できないという体たらくであった。その結果買った重松清の『疾走』は本当に買って良かった。が、いつでもまとめサイトが当たるわけではなかった。評価なんて気にせずに気になったものを買った方はいいんだと気づいたのは最近のことだ。新しい作家に手を出すときは冒険感覚で選ぶ。知っている作家ならばある程度の予測をつけて買う。予測以上ならば儲けものだと思う。そんなくらいの心構えだ。

 図書館、に通うようになったのは社会人になってからだ。僕は実は図書館が通勤場所の敷地内にある(念のため遠回しに発言しています)。通うという習慣はそれでようやく身についた。とはいえ、最近は仕事も十九時を回るようになって、図書館の閉館時間に間に合わないことも多い。お昼に抜け出せばいいのだが、食事時間が遅くなるとつい忘れがちになってしまう。借りる心配よりも、延滞してしまわないかの方が実は心配だったりする。

 中学生、高校生の僕は図書館の存在は知れども通わなかった。中学生のときは正真正銘本に興味がなかったし、高校生の図書館は通っていたクラスとは別の棟の奥まったところにあり通う気になれなかった。大学の図書館は専ら勉強のために行く場所だった。小説の棚があることを知ったのは卒業した後だった。

 大学のときにあんなに時間があるときになんで本を読まなかった、と思わないでもない。何をしていたかと言えば、まあ勉強と、遊びである。バイトは家の手伝い程度で、家はちょっとしたお店であり、余所の家で働くくらいなら手伝えというのが親の言い分だった。今にして思えばごもっともだが当時の僕は不満に思っていた。かといって親を打ち崩せるほどの考えも熱意もなかった。なにせ説明するということが苦手で、説明するくらいなら受け入れようとする性格だった。今もまあ似たようなものである。なかなかこれは解消されるようなものじゃない。

 反省っていうのはやろうと思えばいくらでも繰り返せてしまう。過去は変わらないのでいくらでも叩ける。どうしてああしなかったこうしなかったと繰り返して、頭の中で疲れる。それでも何もしなければいくらでも続けてしまうから恐ろしい。またこうして内面についての話を始めようとしているこの恐ろしい自我をぐいっと縛って別のことを話す。

 今、高橋三千綱さんの『あの時好きだと言えなかったオレ』という本を読んでいる。これを買ったのはおそらく一年か二年前で、僕は少々恋愛小説を買いたいなと思ってブックオフに寄っていた。で、これを買った。僕はこれを恋愛小説かさもなければエッセイだろうと思っていた。ついこの間手に取ってみて、全然予想と違うことに驚かされた。考えてみればこのタイトルで恋愛物だと思い込むのは実は偏見に囚われているのかもしれないと思い知らされた。

 内容は作者の半生を描いたもので、半分読み進めたいまのところ浮ついた話はでてきていない。恥ずかしながら高橋三千綱さんの名前も知らなかった。このエッセイが1990年の発刊で、当時三十歳くらいと考えると、今は五八歳程度だろうか。内容はとにかく旅に出たがる少年の話で、文章が頗る上手い。捻くれているわけでもなく狙っているわけでもなく、実直さに好感が持てる。ゆっくり読み進めていきたいと思う。

 こんな日記を書いてみたのも結局はこのエッセイを読んで、自分の考えってなんだろうと思い返してみたくなったからである。なのでなるべく自分のことを、という意識もあったのだが、結局は本のことになった。過去に読まなかったにしろ、今は読んでいるわけで、やっぱり自分のことを話すのに本を通じる以外方法が思い当たらない。本を除けば働いているだけなのだからしかたない。働いていることを、もっと私事として客観的に観ることが出来たらもっと面白いのだろうか。でも狙ってはだめだ。狙わないで面白いことを書く技術はまだまだ身についてなどいない。

 オチが一向に思いつかないのでポケモンGOの話をする。先週配信されたこのゲームが今大流行で人々が街を出歩くというすごいことを引き起こしている。付随していろいろ問題も起きているのだけれどまあそれは置いておくとして、すごいものはすごい。僕もやっていて、実は昨日は仕事終わりに開いてみた。そうしたら職場付近は格好のレベル上げ場所だとわかった。なかなか欲が出る。でもプレイする気はない。どうにも職場付近では、仕事のことがちらついてプライベートに切り替えられない。もしも見られたら、というよりも、あの人たちはしないだろうな、っていう感じで自粛してしまう。本だけはそれをすり抜けられる。だから本は欠かせない。家に帰ってほっと息をついて、はじめて息が詰まっていたことに気づく。仕事って嫌ですね。

 あ、今日はお休みでしたので朝からリラックスでした。