【エッセイ】新幹線
新幹線と聞いたときに僕が思い浮かべるのは、田畑を突っ切るようにして延びるコンクリート造りの高架だ。それは僕の地元の景観に由来する。
地元では新幹線の高架が東西に延びていた。
北と南に分断されていると捉えれば、市街地は北側だ。
僕が住んでいた南側から遊びに行こうとしたら、どのようにしても高架下を潜り抜けなければならなかった。
雨水に爛れた壁や、落書きまみれの脚部。
ただでさえ薄暗い印象の高架下で、新幹線の通過に遭遇すれば、轟音と振動に全身を飲み込まれる。
もしも崩れ落ちてきたりしたら確実に死ぬんだろうなな、なんてことを考えながら自転車のペダルをその都度強めに踏み込んでいた。
その頃の自転車はとっくの昔に壊れてしまったけれど、感触は未だに憶えている。
小説の中で新幹線が登場するときも、僕が最初に思い浮かべる新幹線は、上記のとおり、田舎の上空を走り抜ける形をしている。
描写として明らかに都会の中だったり、山間や海沿いを走っているのだったら、さすがに別のものをイメージしなければならないけれど、そのような描写がないならば、僕のイメージは決して間違いとは言えないだろう。
作者さんも、他の読者も、思い浮かべるのは別々の新幹線だろうけれど、違わないのならばどのイメージでも構わない。
形がひとつに定まらないからこそ、好きなように作り出せられる。
作中の舞台が学校ならば、一番イメージしやすいのは自分のいた学校だろうし、教室は見覚えのある場所になる。
自分の記憶を組み替えて、継ぎ足したりして、文字情報から景色を作り出す。
イメージが個人に帰属する。それは小説のいいところで、同時に難しいところでもある。
個人で作り上げたイメージは、共有すると往々にして違和感がつきまとう。
小説をイメージして作り上げたイラストが、他の人にとっては違和感の塊だったりする。
ただでさえ、今の創作物は共有するのが当たり前という風潮にあるから、なおさら厳しい。
個人が好き勝手にイメージできることと、共有することとの両立はとても難しい。
個人のイメージを放っておくならば、そもそも共有する必要はない。
共有するんだとしたら、個人のイメージはなるべく尊重したい。
最初からピタリとみんなのイメージが嵌まればいいんだけどね。
テンプレが流行るのは、結局そのピタリと嵌まる確率が高いからなんでしょう。
とまあ、そんな綱渡りの駆け引きを、そもそも僕が考えるのは不似合いな気がして、いつも適当なところでやめている。