【エッセイ】石柱
中国や台湾の神社は柱が石で出来ているらしい。ひとつの岩から意匠の全てを削り出すのが良いとされているらしく、同じ柱はひとつとしてないのだそうな。
西欧は石造り、日本のは木造、なんて区分けをなんとなく受験勉強中の国語の評論とかで刷り込まれてきたように思えるけれど、実際のところそんなに綺麗に区分けできるのかちょっと疑わしい。
西欧だって広いんだし、どこかのタイミングで木に着目した人はいたんじゃないだろうか。
あるいは日本にだって石の中で暮らそうと思った人がどこかにいたんじゃないんだろうか。
手に入りやすい素材とか、コストとか、諸々の壁はあるけれど、想像するならいくらでもできる。
というか、想像することをよしとするならば、ガラスとか氷とか、水とか雲とか、自分の好きなもので家を作ることを想像した人は、きっといたはずだ。
どのようにして実現するのか、それはまた別の問題で、しっかりした理由をつけた机上の空論ということもあれば、とりあえず魔法でどうにかなったんだとか、それくらいの緩い実現可能性に期待して、想像は膨らんでくれる。
逆に言えば、ありえねえなというツッコミがあまりにも強く浮かんでくるようなら、想像は簡単に瓦解する。想像は可能性に依拠している。ちょっとありえるかな、ってくらいが一番ちょうどよくて、聞いている方も没頭できる。
遙かな昔、モーセという偉い人が紅海を引き裂いてヘブライ人をエジプトから脱出させ、パレスチナへと導いた。世に言う出エジプトというやつだ。この漢字一文字+国名というバランスの悪さがいつも気になっていたのだけれどそこはとりあえず置いておく。
この話は伝説で、出エジプトの意義を大人が子どもへ伝えるために語られてきたのだろう。
そこでたとえば、海水が上からどんどん流れ込んでくると思うんですが、と疑問に思った子もいたかもしれない。
大人たちはその疑問には答えなかった。少なくとも、疑問に対して伝説をねじ曲げることはしなかった。
海は割れてヘブライ人は無事に脱出できた。それこそが主題だった。脱出したことは事実で、あとはそれをどのような方法で遂げたかをそれっぽく語れれば良かった。
実現可能性という意味でいえば、モーセさんならばまあ、海くらい割るだろうと……そういうことなのかなあ? わからなくなってきた。
舟を使ったり、陸路で歩くくらいじゃ、地味すぎて、嫌がられたのかもしれないね。十分大変だと思うけど。