雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

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いきなりなんですがAVに出て来る女の子にだんだん年下が増えてくるのって忍び寄る恐怖って感じしませんか? しますよね?

どうしてこんな書き出しなのかっていうと自分がまたひとつ歳を取ったからで、だからといって畏まったことを書いても虚しいだけだし、未来への抱負と過去への悔恨とか書き連ねるのもいい加減飽きたというか、どうでもよくなった感があって、それでも言葉を書きたいなって思ったときはやっぱり何かに勢いを仮託するといいじゃないですか。つまるところ言葉を書きたいだけだっていう浅ましい何かなんですけど、その何かが自分を体現するとしたときに畏まった状態があまりにも小っ恥ずかしいんで照れ隠しで下ネタから始めるっていう、そんなプロセスを踏んだのにそもそも下ネタな時点で小っ恥ずかしいどころか普通に恥じゃないですか。これまで書き連ねてきたことの半分以上が不要な議論だったわけで、そもそも議論としてもなりたっていないし、文字を書くだけ書いて満足するといういつもの癖のクソッタレなの何かでしかないですよ。歳は取りたくないものですね。取るしかないんですけどね。人間だもの。

 

『承認をめぐる病』っていう本を数年前に読んだんですけども。

表紙がふわっとした感じの柔らかい女の子のイラストで、著書の斎藤環氏曰くこのイラストのお陰で売上が伸びたとか、そんなジョークを中身で飛ばしているんですけども、実際僕もイラストにつられた買った側です。表紙にしか出てこないのは学習参考書みたいですね。amazonレビューが真面目な感じなのが並んでいてちょっとだけ笑った。表情筋を一ミリも動かさずに。

本の内容は全く以て忘れたので、それは別に良いんですけども、承認という言葉は当時も僕に刺さってきたし、自分が小説を書いているのも結局承認を巡ってのことかなあと、ちょっと思ったから取り上げてみただけです。

 

この承認についての病ってのは、まあ創作文芸や、もしかしたら別の、例えばイラストとか音楽とかそっちの方にも使われている言葉なのかも知れないけれど、ざっくりと概要を言えば自分の作品が他人に認められること(=承認)への欲望が高まりすぎて、創作活動するという本来の目的が他人に評価されることへとすり替わるというものです。そりゃもう聞いているだけでも恐ろしいというか、ピュアな創作欲求を穢す業というイメージがつきやすいので、正義の名の下にぶっ叩くのが非常に手軽だし、多かれ少なかれ承認欲求はあるものだから心に傷を負う創作者も多いわけで、あまり構い過ぎると心に支障を来すので無視するのに越したことのないものです。そこは変わらないですね。

 

twitterを20分間いじってました。

 

最初に小説を書いたのはwebっていうか2ちゃんねるなんですけど、そこで書いていたとき僕は承認を求めていたかっていうと、ちょっと違うかなと思うんです。投下していたスレ(スレット、掲示板の中の一つの記事みたいなやつ)に、コテハン(匿名掲示板なのにわざわざ固定のハンドルネームって奴をつける奇特な人たち)同士で殺し合いをさせるっていう内容で、最後は爆発して終わりだったこと以外は全然覚えていないんですけども、それは書いていてめっちゃ楽しかったんですけど反応はあんまりありませんでした。IDも出てこない場所だったので、面白かったとか言ってくれた人がいったい何人なのかも正確にはわからず。まあでも、それでも良くて3回くらい繰り返して小説書くのが楽しいなってなった。これは承認なのかどうかっていったら、違うって思うんですよ。だって別に誰かに褒められたかったわけではない。書きたいから書いていたわけですよね。自分本位なわけです。推敲だってしてないし。

自分の頭の中にあったお話を書き殴って形にした。そこで僕のやりたいことが終わっていたので書く作業はそれで終わった。

その後2ちゃんねるを転々とした話は散々別の記事で話しているので省くけど、僕がやっていたのは自分のためだった。書きたいことを吐き出す感じが心地よかった。そこでどうして小説だったんだろうとも思うんですけども、多分僕はあまりキャラクタには興味がなかったんだと思う。それよりは話でどうにかしたいというか、入り組んだ話をして驚かせたりするのが楽しかった。その過程で、どうにも乗り越えられないものをかんじて、もっとちゃんと人を書けるようになろうと思った。で、人に興味を抱き始めた、って感じかな。

僕は別にひとつひとつ理由をつけて行動しているような丁寧な人間ではないので、理由が明確に一義的に僕と重なり合うわけではないんですけども、あえて後付けで理由を付すとしたらそうなるわけですね。

 

書き続けているうちに承認欲求も湧いてきた。何自然現象みたいに話しているんだって話なんですけども、webで発表している時点で承認はついてくるもの、というか反応ですね。反応。それがついてくるから、良くも悪くも人の反応が気になってくる。ツイッターの虫眼鏡に自分の名前や作品名を書き連ねてみたり、以前自分の作品に一言述べてくれた人を新作公開する度に監視したり、webサイト上に残した僕の作品の残滓(つまりはまったく別のサイトで僕の作品名が持ち上がること)を発掘しては突然コメントをつけてビビらせたり、そんなことをよくやっていました。すべて承認欲求のせいなんです。その人を殺したのは俺じゃなくて俺の右手なんだ、みたいなね。

承認欲求を満たす方法はいろいろあったし、本当はもっとどっぷりとつかれば満たせたのかも知れない。盤石な基盤を築き上げてちまちま作品を書いてアピールしたり人の喜ぶ作品ばかりを書いたりすれば、承認されるし、そこにはいてもいいってことになるので、水を得た魚というか、空気溜りに辿りついた人間みたいな、そんな心地だってする。基盤で創作を続ける限りはいくらでも活動できてそれは楽しくて問題のない完璧な世界ですね。綺麗だね。

なぜかそれがぼくは続けられなかった。

いや、やろうと思えばできるんだろうけど、やる気にならないというか、終わらないんですよね、いろいろと。終わらないものが重石になって遊ぶこと自分を諫めてくる、いや何を言っているんだろう。作品は人間ではないので、意見も言わないので、意見するのはいつだって自分だし、諫めてくるのも自分ですね。

どうにもさっきから歯切れが悪いのは酔いが醒めてきたのだと思います。

 

この前自分の作品を見返したんですけど、自分のために書いた作品と他人の為に書いた作品がはっきりわかれている。というかツイッターのタグ遊びみたいなものやフリーワンライで生み出したものもまあ自分の書いたものなんだけど改めて読み返すとブレブレというか意味が分からないというか、結局その場の雰囲気でしかなりたたないものだと思えてしまえてとても空虚だったんですよ(それらの作品を好きだといってくれる人もいると思うので明言するのはその人たちに悪いのでどれだということは避けます、あとこの感じ方も僕個人のものなので気にしないでください。無理か。ごめんね)、で空虚さの合間合間に時折変な作品が混じる。読み返してもちゃんと耐えうるものがあったりする。狙って書いたものじゃないからとても難しいのだけど、少なくとも紙の本にしたお話は比較的そちらに近い。

じゃあ書きたいものが見つけられたら書けるのかな、とも思う。

人を書きたいってのをこの一年近く掲えあげて、それはカクヨムに昨年投稿した『便箋仲介人』から始まる作品で、タグ遊びとか人に送る小説とかワンライとか、そういうのを取っ払って久しぶりに自分が書きたいものを選んで書いた作品だった。恋愛ものだった。いや、結局は人のコメントを求めたものではあったけれど、なんか書いたことへの充足感がものすごかった。承認を追い求めていたときとは全然違う、自分のために書いたお話だったんだなと思う。正直あんまり上手くはないよ。

そこからカクヨム投稿が続くのだけど、しばらくワンライに戻ろうとして、ふたつばかし書いたあたりで面倒になって逃げた。カクヨムに籍を置きながら書きたいことが見つからず長いことぐるぐる回っていた。

 

そうして『火竜』を書いた。

どうせ年末になったら振り返り記事を書くだろうし、そのときに当時の経緯は書くのでここではざっくりさせたいのだけど、いいポイントになってくれたと思う。もっと頑張ろうと思えたのはこの作品のおかげだった。

それは評価されたからかも知れない。レビューがついて星をもらえて、明らかにそこには反応があった。結局は承認欲求のたまもので、充足されたという思いが今一度創作へ向き合わせる力を与えてくれたのかも知れない。たとえそれが幻想でも、嬉しかったことには変わりないですし。

 

上手く書きたいなあと今は思っている。

それは心情描写のことでもあるし情景描写のことでもあるし、何を書きたいのかとか、どうやって表現するのかとか。これまでやってきたこととはまた別の形で、意味をもって行動したい。研究して書いていきたいんですよね。どうやればいいのかわからないのが歯痒いところで、書いても書いても何度も直している。

正直自分の作品を書き直すってことが今まであまり念頭になかったというか、書き上がったらそのまま投下しちゃうのが今までの自分だった。書けばそれで自分が満足だったから。また、他人のために書いていたときも、書いたってことを咎める人はいなかったから。

上手く書くのってどうやればいいんですかねって、思いながら書くようにしている。それだけでもマシになったと思いたい。

まあ、この記事は推敲していないし、何なら読み返してもいないし、久しぶりにぶん投げるだけのものなんですけどね。

 

ぐるぐる回って元にもどった気もするし、退化した気もするけど、まだ書いていたい。結局希望的観測というか、そういった言葉に置き換えて気持ちを乗せて書き綴るしかなくて、凡庸なものに落ちついてしまうのが悲しい。でもこれが今の自分なのだろう。認めざるを得ない。ちゃんと見ないと前に進めない。

 

読み返すとあたまが痛くなりそうなので、このままにします。