雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

【感想文】月の満ち欠け(佐藤正午)

導入

自分の知らない他人の子どもが、自分を知っていると語る。

目の当たりにした現象を噛み砕くこともできないまま、壮年の小山内は、るりと名乗る少女の物語に耳を傾ける。

 

ということで、生まれ変わり、前世の記憶をめぐる物語です。

いつだったか冒頭部だけを読んで、自分は多分好きな感じだろうなと思いました。

佐藤正午といえば、去年だかの直木賞作家でしたか。

確かそのときに『ジャンプ』という小説を読んでそれなりに楽しんだ記憶がありますね。

 


傍観

主人公となる小山内という男は、瑠璃という娘を授かり、別離の経験がある。

物語の冒頭に登場したるりはその記憶があり、さらに以前の記憶もある。

つまり主人公は、生まれ変わりを繰り返す女性の父親の一人。主人公が生まれ変わりかもしれないという、妻が抱いた疑念を耳にして、精神を病んでいると危惧した常識人です。

だから主人公は常に瑠璃の語ることに懐疑的です。物語の終盤になってくると、その思いは顕著に描写に現れてきます。


もしもこれが生まれ変わる当事者、あるいは生まれ変わる瑠璃が探し求める三角の視点であれば、ただのSF風のメロドラマに落ち着いていたことでしょう。

主人公が疑念を抱く。その視点は、単純な感動を退けます。これは本当にいい話なんだろうかと、読み手であるこちらにまるで訴えかけるようでした。

 


実際、これは単純な感動の話としては受け止めちゃならないんだと思います。

作中には一人、瑠璃をめぐる人物が登場します。生まれ変わりであることを信じてしまったために、とある凶行に及んだ人物が、主人公の対比として登場します。

この話が述べられるシチュエーションとあいまって、それは主人公の内面に楔を打つ。生まれ変わりを信じることは、この世の理に反することなのだと。主人公がしきりに男の顛末を聞きたがるのは、自分の未来を投影したからでしょうね。

 

木と月

木のようにと月のように。

この比喩が作中に語られます。

意味するところは、人のあり方です。

木のように種子を飛ばして後継者を育てていくか、それとも月のように時間をおいて元に戻るか。

生まれ変わりを繰り返す瑠璃は、自らの悲願のために月のような生き方を選んだ。選ぶことができてしまい、多くの人を巻き込んでそれに邁進します。

そして普通の人に過ぎない主人公を含めたその他の人々は、決して月のようには生きられないし、同じようには考えられない。

存在する次元が違うんですね。時に対するあり方が違う。

後継である世代と交わることは、僕らの社会は決して許さない。

 


木のように生きる人と月として生きる人は決して一緒にはなれない。少なくとも主人公は頑なにそう信じる。とある理由で心揺らぎそうになっても、自分の身の周りの世界を守るために、目を瞑ることを仄めかして終わります。

 


ジャンプを読んだときは、拘りのある文章が不思議だなと思っていたのだけど、この月と満ち欠けではより明確な意味を持っていた気がします。

細部に拘る文章、視点は、飛びそうになる思考を地に足つけたものにするためのプロセスなんですね。

勢いに乗ってドラマに流れていきそうになる展開に、待ったをかける。常識からの視点を忘れさせない。あるいは、忘れることができない。そんな作者なのだと感じました。

 


まとめ

交わらない人々の哀切が伝わってくる良作でした。

文章の面白さも際立ちますね。緩急があって、小気味好く頭に入ってくる。

欲を言うなら冒頭に登場する少女と母親の話をもっと読みたかったかなと思います。あと100ページくらいあっても苦にならないと思うんですが、それを書かなかったのは、結局同じことの繰り返しになるからでしょうか。

 


生まれ変わりというネタ自体は使い古されていると思うんですが、傍で巻き込まれる人々を語り手に選んでいるのが新しくて面白かった。

佐藤正午氏は合いそうなので、次は何を読みましょうかね。「鳩の撃退法」かな。