雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

宮本輝『三千枚の金貨』(光文社)

 みつけたら、あんたにあげるよ。

 男はそういって、自分の病室に戻って行った。

                              ――三千枚の金貨 第一章 より

 西アジア旅行から帰国した40代サラリーマン、斉木光生。長い旅の最中、かつて入院していた時に見知らぬ男から受けた伝言が頭の中で蘇っていた。馴染みのショット・バーのママであり、同病院の元看護士である室井沙都にこの話をしたところ、何やら心当たりがある様子。同僚の川岸、宇津木にも男の話をする。数日後、セリザワ・ファイナンスという金融会社から尋ね人がやってきて……

 金貨の在処を探す話、とざっくり言ってしまうこともできるが、話の主眼はどちらかというと金貨を隠す経緯に目が向いている。

 上巻はどちらかというと斉木の西アジア旅行の思い出話が主だ。日本人に馴染みのない西アジアの国々、粗暴だが力強く意志に満ちて生きる人々。電灯すらない闇の中で感じる浮遊感と圧倒的な自然の存在感。価値観を揺さぶる体験が挿入話として語られていき、人間の人生の不定型さを露わにする。

 下巻では、お話の核心である病院の男の過去を突き詰めていき、金貨の在処である和歌山をめぐる旅も行われる。前半での布石もしっかり生きて、ある種ロードムービーのような空気を醸し出す。とはいえ旅をするのは四十代のおっさんたちだけど。

 特に西アジアでの体験を語るパートでは、それぞれ密度が濃く、色彩が豊かで、主人公を通して読者にも強烈な印象を残す。お話の中心である金貨探しとは関係ないといってしまうこともできる。だけど、これがあるからこそこのお話は特徴的で、登場人物たちの行動に深みが増している。実際に影響を受けた主人公のほか、登場人物たちは実に様々な意志を持ち、生き様をもっている。人の命はちょっとした自然災害に簡単に潰されてしまうほど儚いものだけど、その実本当に多様で、ときに辛くて、ときに面白い。

 

 ただはっきり認識できたのは、幻術師の奇怪な目に似たものが、この世には満ち満ちているということだった。自分たちはそれに欺かれ、惑乱されつづけているのだ、と。そしてそのことを、多くの人々はまったく気づいていないのだ、と。

 斉木光生の父は家の外でできた愛人に会社の金を使い込んで逮捕された過去がある。その理由を知ったのは斉木が中学生の頃で、斉木少年はあまりの屈辱から自転車を駆り、海へ飛び込もうと決意する。しかし港町で地元の老人に声を掛けられ、踏みとどまる。風を察知し顔を向けるかもめの話。気勢を削がれた少年は帰途につくが、その途中で、風の服方向に向かう自分を遠くから見たいという願望を強く持つようになる。

 願望は西アジア旅行の写真に現れていた。日本語が達者な中国人ガイドに助けてもらいつつ撮ってもらった、乾河道でひとりたたずむ写真。かつて死を意識して母と歩いた冬枯れの河を想起しつつ、彼は無理を言ってその写真を撮るように頼んだのである。

 自分を見つめる。反省というよりも、観察に近い感情だ。自分のありようを見つめてみたい。眺めて、観察して、自分の人となりを知りたい、それが斉木の願望の意味するところなのだと思う。

 それが、自分を見たいと思った最初の日なのだ。鏡に映った自分ではなく、見られていることを意識していない自分を遠くから見たいという思いは、四十代に入ってさらに強くなってきている。

 この小説の中で欠かせないのが病院の男だが、ここでその内容に触れてしまうのは野暮だ。長い部分を占める過去の内容は、ぜひ読んでみてもらいたい。

 だから、忘れなくてはならない。忘れることが勝つことだ。傷をひきずらないことが勝つことなのだ。狂った獣を憎んで何になろう。あのような目に遭ったことへの代償として、お前は他の人よりもずば抜けた才能を与えられたのだ。私はそう信じている。お前もそれを信じるのだ。お前のお母さんが、どれほどお前を愛していたかを、私はいつでも何度でも話して聞かせてやろう。

 そう、これは家族の話、もっと言えば親と子の関係の話でもある。病院の男もそうだし、光生もそう。実は彼の傍の人たちにも多分に家族が関わってくる。このようにとらえると、ますます西アジアのエピソードが浮いて見えてくるかもしれないが、実はそんなことはない。西アジアのエピソードは言ってみれば自然対人間の話だ。人間は自然の一部で、たまたま頭を使って文明を生み出すようになり、独自に生きるようになった。自然は人間の親と言える。やや壮大な話ではあるが、西アジアでの経験はその切っても切れない関係の中の安らぎ、そして過酷な中で生きる気概を思わせる。砂漠で一人歩く少年は立ち上る竜巻を前に何を想ったか。強い意志の目を持つ親子はどこまで歩いて行ったのか。空想せずにはいられない。

 人間を人間足らしめているのが文明だが、これが生活レベルでも語られているのが、光生の実家でのシーンだ。光生の息子である康生は、突然祖母の蕎麦屋を継ぐと言い出す。その理由は、「祖母が死んだら技術が失われるから」……これこそ、文明全体に言えることで、人がいなくなれば文明は無くなる。生きている誰かが受け継ぐ限り続いていく。一旦途切れた文明、文化、技術も、後にそれを調べつくす何者かによって復活するかもしれない。古美術や山水画、芸奴など、様々な芸術文化が作中に現れるが、それもまたこの文明論を想起するための要素であるのだろう。

「ひいおじいさんが死んで、誰も跡を継がなかったら、ひいおじいさんが持ってた凄い技もこの世から完全に消えちゃうの?」

 まだ小学六年生だと思っていたが、いつのまにかいろんな深いことを考えるようになっていたのだと思い、光生は幸福を感じた。

 波のしぶきが大きくなってきた。

 注)ここでのひいおじいさんは、康生の友達のひいおじいさんのこと。

 文明論も、突き詰めれば生と死の相克なのである。

 作中での重要なキーワードでもある、「隠された三千枚の金貨」も、実は文明、文化と共通点がある。ややネタバレになってしまい申し訳ないが、本来この伝言は「決して誰にも伝わるはずのない言葉」だったのだ。それを主人公がたまたま思い出したから、物語が生まれた。思い出した経緯については詳しく書かれていないが、言い換えれば男の残した意志を、主人公が受け継いだ形となっているわけだ。

 お話はとてもきれいに終わる。説明したりないところもほとんどないし、微妙な心情にも多くの説明がついていてとても読みやすい。ロードムービーのよう、と先ほど言ったが、他にも家族小説、サスペンス小説、青春小説などの要素が取り入れられている小説だ。あまりにも物事に決着がつくために物足りないと感じる人がいるかもしれないが、このあたりはその人の好みによるだろう。

 「三千枚の金貨」上下巻、楽しく読ませていただきました。とても良い休日が過ごせたと思います。