雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

【感想】映画篇(金城一紀)

大学四年の時間を持て余していた時期に、映画好きの後輩から『GO』という邦画を勧められた。

在日朝鮮人の主人公が社会と反発しつつ自分を見つめ直し突き進む映画で、触れがたいシリアスなテーマにも関わらず、視聴後の気分は爽快だった。

『GO』の原作者として、僕は初めて金城一紀という名前を知った。

後に原作も買い、『レヴォリューションNo.3』を読んだ。説明のしにくい爽やかさが癖になる方、というのが僕の印象だった。

 

さて、『映画篇』。映画をテーマにした短編集であることは一目瞭然。

各話タイトルは古い映画が引用されている。

新潮社文庫の裏表紙では「友情、正義、恋愛、復讐、家族愛」と紹介されていた。

何となく、恋愛が一番最初じゃないのがいいなと、そんなことを考えながら手に取っていた。

このところ恋愛小説ばかり読んでいた反動だろうと思われる。

 

読んでいる途中では、作風の多彩さに驚いた。

爽やかさ、活力を求めていたのだが、繊細な表現もあったのが意外だった。

弱い立場の人に寄り添っているといえばいいのか。正道でない人たちが物語の中心となる。だけど、湿っぽさは控えめだ。このバランスが、僕にはとても快かった。

 

五つある短編集のうち、個人的に最も好きなのは、初めに収められている「太陽がいっぱい」。

回想として描かれる擦れ違いが切なくて、オチにはにやりとさせられた。まさに求めていた感触を最初に味わえた。

 

ただ、この短編集を一番象徴しているのは、最後に収められている「愛の泉」だと思う。

先ほどの文章と矛盾するかもしれないが、珍しく弱い立場の人が出てこない。主人公はどちらかといえばちょっと行きすぎた臆病さが際立っている。

ただ、行動の端々に窺える一途さが期待を生む。だから、結実まで読み終えても嫌らしかった。

 

収められている作品の中では最長の、この「愛の泉」を読み終えるまでに、僕はぴったり二時間を費やした。

ちょうど映画一本観るだけの時間だったことに、僕は妙に得心した。この読後感は良い映画を見終えたときの満足感に良く似ているのだ。

 

映画館の暗闇の中では、俺たちは在日朝鮮人でも在日韓国人でも日本人でもアメリカ人でもなくなって、違う人間になれるんだ。

(中略)

クソみたいな現実からほんの少しのあいだだけでも逃げられる。だから、俺たちは映画館の暗闇の中にいると、ワクワクするんだよ。どうだ? おまえもそう思うだろ?」

(『映画篇』「太陽がいっぱい」より)

 

また、読み通せば映画ガイドになっているのも、ベタと言えばベタなのだが、それが良かった。

読み通すことで寄り添った登場人物たちの、勧めてきた映画、あるいはダメだしした映画。興味を抱くにはちょうど良い。

 

「まぁ、人であれ映画であれなんであれ、知った気になって接した瞬間に相手は新しい顔を見せてくれなくなるし、君の停滞も始まるもんだよ。そのノートに載ってる好きな映画を、初めて見るつもりで見直してごらん」

(『映画篇』「愛の泉」より)

 

 

映画篇 (新潮文庫)

映画篇 (新潮文庫)

 

 

アドヴァンシヴかつグローヴァルなネオ・ポスト・モダン・ソーシャルにおいてTRIZからファー・フロムなパスト・レガシー・コンテンツであるところの”漢文”なるものについて

最近漢詩が面白そうだと思って読み耽っていたのだが、漢文を学ぶことの無意味さを解くツイートが流れてきて、反論として漢文はこんなに大事だよ! とか、やっぱり意味ねーじゃねーかとか、いろいろな言論が飛び交っていたので、面白そうなので話題に乗って思うところを書いてみる。

 

漢文は必要か否かって言われたら、まあ率直に言えば必要ないだろう。

漢文がなくても平気で暮していけるし、特段問題もない。

知りたい人が趣味の範囲で学ぶ分には誰も文句は言わないが、必要も無いのに学ばされたらそれは当然嫌だろう。

 

そもそもどうして漢文を学ばされていたのかといえば、昔は使われていたからだ。

主にフォーマルな場面でのやりとりは全て漢文調で行われていた。

法律でいえば、戦後に順次改正されているけれど、最後のカタカナ条文である商法がもうじき改正される。調べてみると意外と長続きしていたけれど、これにより漢文は公的な場面から完全に姿を消すことになる。

漢文調は使わない。それが社会の流れだった。そのような決定がなされたときから漢文が不必要となる未来は決まっていたといえる。

 

ところで公的な文章といえば、かつては口調が端的だった。一般の人々に何かの行動を強いるときは「○○すべし」と決まっていた。これも漢文調の名残だったんだろう。

あるときから、公的な文章も柔らかい言葉を使うようになった。何らかのお願いをするときは「○○すべし」から「○○してください」になり、「大変ご面倒をおかけしますが○○してくださいますようご協力願えますか」という具合になった。

どうしてこんなことになったかと言えば、命令される側であるところの市民からの反発があったからだ。いきなりすべしとか言われると人権を無視されているように聞こえるからだという声が上がったわけだ。

要するに他人を思いやれと、そういう気持ちを公的な機関にまで求めるようになって、言葉がどんどん柔らかくなっていった。

柔らかいとは何かというと、相手の意志を尊重しているというアピールを重ねることだ。最終的に質問の形を取るのは最終決定権が相手にあることを示している。

 

端的な言葉でやりとりをしていた公的な場面で柔らかい言葉が取り交わされるようになった。これで公的な雰囲気が無くなったかというとちょっと違う。柔らかい表現ではあるけれど、一般人同士の会話ではまず使われない。このような言葉を使うのはやはり公的な場面でしかないわけだ。

 

普段の会話で使われない言葉遣いは、ひとえにわかりにくい。

敬語のルールは複雑さを増しているし、公式見解以外にも細やかなルールが人知れず生み出され、知ってて当然とでもいう調子で取り沙汰される。

本来の意味からはかなり離れて、今となっては知っているかどうかを計るステータスのようなものなのだろうけれど、複雑すぎるルールはそのうち破綻する。なくしてしまった方がいいという声が必ず上がるだろう。

そのとき人々は何を望むか。過剰な思いやりや意思の尊重の言葉の羅列を排し、簡潔な正しさだけを現わす言葉。そのような言葉がかつてこの国にあったことをやがて人々は思い出すだろう。つまるところ、漢文だ。

 

というわけで僕の考えでは、漢文はとっくに滅んでいるし、今の段階では学ぶ価値もない。しかしいつの日か必ずその価値は再発見されるだろう。

こんな予言を残しておくので、上手くいったら思い出してください。

 

 

おとなのためのやさしい漢詩教室

おとなのためのやさしい漢詩教室

 

 

 

ものの本で読んだ話だけど、昔は文章にわざと難しい漢字を並べることでインテリぶるやり方が流行っていたらしいですね。今も昔も変わらないのでしょうね。