アドヴァンシヴかつグローヴァルなネオ・ポスト・モダン・ソーシャルにおいてTRIZからファー・フロムなパスト・レガシー・コンテンツであるところの”漢文”なるものについて
最近漢詩が面白そうだと思って読み耽っていたのだが、漢文を学ぶことの無意味さを解くツイートが流れてきて、反論として漢文はこんなに大事だよ! とか、やっぱり意味ねーじゃねーかとか、いろいろな言論が飛び交っていたので、面白そうなので話題に乗って思うところを書いてみる。
漢文は必要か否かって言われたら、まあ率直に言えば必要ないだろう。
漢文がなくても平気で暮していけるし、特段問題もない。
知りたい人が趣味の範囲で学ぶ分には誰も文句は言わないが、必要も無いのに学ばされたらそれは当然嫌だろう。
そもそもどうして漢文を学ばされていたのかといえば、昔は使われていたからだ。
主にフォーマルな場面でのやりとりは全て漢文調で行われていた。
法律でいえば、戦後に順次改正されているけれど、最後のカタカナ条文である商法がもうじき改正される。調べてみると意外と長続きしていたけれど、これにより漢文は公的な場面から完全に姿を消すことになる。
漢文調は使わない。それが社会の流れだった。そのような決定がなされたときから漢文が不必要となる未来は決まっていたといえる。
ところで公的な文章といえば、かつては口調が端的だった。一般の人々に何かの行動を強いるときは「○○すべし」と決まっていた。これも漢文調の名残だったんだろう。
あるときから、公的な文章も柔らかい言葉を使うようになった。何らかのお願いをするときは「○○すべし」から「○○してください」になり、「大変ご面倒をおかけしますが○○してくださいますようご協力願えますか」という具合になった。
どうしてこんなことになったかと言えば、命令される側であるところの市民からの反発があったからだ。いきなりすべしとか言われると人権を無視されているように聞こえるからだという声が上がったわけだ。
要するに他人を思いやれと、そういう気持ちを公的な機関にまで求めるようになって、言葉がどんどん柔らかくなっていった。
柔らかいとは何かというと、相手の意志を尊重しているというアピールを重ねることだ。最終的に質問の形を取るのは最終決定権が相手にあることを示している。
端的な言葉でやりとりをしていた公的な場面で柔らかい言葉が取り交わされるようになった。これで公的な雰囲気が無くなったかというとちょっと違う。柔らかい表現ではあるけれど、一般人同士の会話ではまず使われない。このような言葉を使うのはやはり公的な場面でしかないわけだ。
普段の会話で使われない言葉遣いは、ひとえにわかりにくい。
敬語のルールは複雑さを増しているし、公式見解以外にも細やかなルールが人知れず生み出され、知ってて当然とでもいう調子で取り沙汰される。
本来の意味からはかなり離れて、今となっては知っているかどうかを計るステータスのようなものなのだろうけれど、複雑すぎるルールはそのうち破綻する。なくしてしまった方がいいという声が必ず上がるだろう。
そのとき人々は何を望むか。過剰な思いやりや意思の尊重の言葉の羅列を排し、簡潔な正しさだけを現わす言葉。そのような言葉がかつてこの国にあったことをやがて人々は思い出すだろう。つまるところ、漢文だ。
というわけで僕の考えでは、漢文はとっくに滅んでいるし、今の段階では学ぶ価値もない。しかしいつの日か必ずその価値は再発見されるだろう。
こんな予言を残しておくので、上手くいったら思い出してください。
ものの本で読んだ話だけど、昔は文章にわざと難しい漢字を並べることでインテリぶるやり方が流行っていたらしいですね。今も昔も変わらないのでしょうね。