BOOKOFFに1970年代の本を探しに行って懲りた話。
『いつか王子駅で』(堀江敏幸/新潮文庫・2006年発行)を読了した。
※この記事の発行日は文庫本のそれです。
長回しかつ内省的な文章に終始しているけれど疲れることはなく、むしろその感受性の豊かさを存分に楽しめる。
瞬間にいくつも思索が駆け巡る様をいくつも読んでいると主人公が本当に生きていて、しかも随分自分と親しい存在のように思われてくる。表現も堅苦しくない。
長い文章なので最初のうちはぎこちないけれど、読み慣れてくると心地よかった。
この作品の特徴の一つは主人公の読書批評が混じる点。
名前が出てくる作家や小説はなんだか読みたくなってくる。
できれば純文学を。
というわけで読み終えたその足で近場のBOOKOFFへと直行する。
『いつか王子駅で』に登場したのは「安岡章太郎」や「島村利正」、時代としては戦前~戦後、1970年代ほどくらいかなと目処をつける。
そのあたりの作品をいくつか借りられたらいいな、くらいの考えでいた。
買った本はこちら。
・『優しいサヨクのための嬉遊曲』(島田雅彦/福武文庫・1985年発行)
・『村上龍全エッセイ 1982-1986』(村上龍/講談社文庫・1991年発行)
・『「話して考える」と「書いて考える」』(大江健三郎/集英社文庫・2007年発行)
1970年代の純文学の本、冗談抜きで全然無かった・・・・・・
もっとも調べ方はとても単純で、Wikipediaの日本の近現代文学のページをざらっと眺め、1970年代の所謂「内向の世代」以降の作者名をメモに取り、文庫本コーナーを探し回るというもの。全部を検証できたわけじゃないので見逃しはあったかもしれない。
それでも目立ったのは1980年代、そして特に1990年代以降の本が文字通り氾濫している状況だった。
付け加えて言えば、もちろん80年代に活躍した作家名にもいくつか目をつけていた。
できれば「村上龍」や「村上春樹」、「大江健三郎」などは読んだことがあったのでできれば新規開拓したい、と意気込んで。
しかし結果は上記のとおり。かろうじて島田雅彦を見つけられた他は、未読の作者は一切見つけられなかった。
帰路、電車の中で考えてみた。
BOOKOFFに売られる本、売られない本の違いは何なのだろう。
まず1980年代の本について。読者は、当時10代~20代だとしたら、今は30代~50代となる。
仕事は多忙になるだろうし、ご結婚される方も多い。私生活が圧迫されて、読書に時間が割けなくなる。本を手放して蔵書整理するのも頷ける。どうせなら小金稼ぎに、ということでBOOKOFFに売られるのだろう。
次に、90年代以降の本が溢れていたことについて。
ググってみたら、BOOKOFFの設立が1991年とあった。BOOKOFFのシステムが世に出て、古本が送られるようになった。その当時流行った本から順次BOOKOFFへと送られていったというのが、90年代以降の本が多い理由だろう。
では1970年代の本がほとんどないことについて。
主な読者層は、当時10代だとしても50代。BOOKOFFができた当初ならありえたかもしれないが、今更本を手放すこともあまりないのだろう。持っていたくない本はとっくの昔に手放していると思われる。
だが、70年代、あるいはそれ以前の戦前~戦後時代の本にも関わらず、BOOKOFFに大量にあるものもある。
重要なのは、70年以前の本なのにも関わらず、今の時代に買われて、BOOKOFFに買い取られている本だ。
具体的にBOOKOFF見た名前を挙げれば、太宰治を始め、三島由紀夫、川端康成、大江健三郎、村上龍、宮本輝、安部公房、等々。
単に有名だから、有名人が薦めているから、センセーショナルだから、ノーベル賞受賞者だから、とかでも説明にはなる。でももうちょっと掘り下げてみたい。
この点、またWikipediaなのだけど、近現代文学史のページで気になる文があった。
平成時代(1989年 - )に入る頃には、戦後派作家は半ば世を去り、第三の新人も創作の最盛期を過ぎており、文学界は各世代が入り混じり、特定の文芸思潮によっては統括できない状況になった。「純文学の危機」が叫ばれる中、商業主義と作家の芸術性の両立がいよいよ困難になり、文学は文化の枢要の地位を失いつつあった。
裏を返せば、平成以前には商業主義とはまた別の文学のありよう(=芸術性)が強く出ていた。
引用中の言葉を借りれば「文芸思潮」だ。
その時代の特色が「文芸思潮」である。流行以前に、その時代を表現するものだ。文学にはその時代時代を表現する作用が、少なくとも平成以前(90年代以前と言っても良い)にはあった。
商業主義と合流して、本が流行に左右されるようになった。映画化や推薦で流行が生まれ、時代性よりも作品としての面白さに目が行くようになった。
元来そのような流行は大衆文学の担う面だったけれど、純文学にも流行の波が現れるようになった。
「文芸思潮」よりも「面白さ」ということで、作品の「個性」が売りに出される。
作者本人の個性も強ければなお良し、ということで、フットワークの軽い者はどんどん表へ出て発言をするようになったのかもしれない。
どこかで聞いた話だけど、最近は作者買いをする人が減った、という。ある作者の特定の作品だけを読み、他の作品は一切読まない。
ネットで事前に評価を調べられるから、わざわざ低評価の作品を買おうとはしない、というのが一応の答えだろう。
でも、そんな買い方が蔓延るようになった根本原因は、作品の「個性」に偏重した書籍の販売形態なんじゃないかな、と思う。
「個性」のある本を求めるようになった結果、突出した箇所をとにかく目立たせるようになった。
どんでん返し、繊細な心理描写、豊富な比喩、奇抜な表現、語りかけるような口調、優しさ、可笑しさ、凄惨、心の闇、策謀、裏切り、映画化決定、ドラマ原作、作者が若い、作者が凄い、ネットで話題、Twitterで炎上、全部AIが書きました。
少し前の時代の本も、そのような「個性」が認められれば売れる。そしてBOOKOFFに売られる。
結局はそういうサイクルなんですね。
文芸思潮(=時代性)って、僕もよくわからないまま言っているから、このような風潮がどうなのかもわからない。止められるものでもないだろうし。
「個性」を売りに出す前の文学はどういうものだったのかなっていう興味はある。
1970年代の本は引き続き探してみたい。
BOOKOFFはもう懲りたけど、教科書に載ったり、特集でも組まれない限りは、ネットで探すのが一番無難かもしれないね。