雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

【感想】さよなら、ニルヴァーナ(窪美澄)

導入、概要

そういえば平成が終わるんだったなと、この小説を読み始めてまず思った。

阪神淡路大震災と神戸連続児童殺傷事件。後に平成が歴史でまとめられるとしたら必ず挙げられるだろうこの二つの事件のうち、特に後者を強く意識して書かれた小説だった。

もちろん、作中で示唆されている事件は現実のそれとは異なっている。首を切られたのは男児だったし、女児は殴り殺されていたし、現実の人は事件を落としたあとに程度の低い煽り文を発したりして、どう見ても遊び感覚だった。

作中の事件はあくまでもあの事件をモデルとして考えたいところだけど、あまりにも似通っているのでつい現実に引っ張られてしまう。なんか、これ書いて大丈夫だったんだろうか? って感じで。

 

調べてみると何年か前に発売された、あの犯人の手記と同時期に発売だったみたいで、何だか無駄に意識されてしまったんじゃないかと思う。(それが出版業界として面白いから、という理由でなされていたのだは考えたくない)

 

ここまで書いておいて難だけど僕は事件当時のことは記憶にないです。それこそ児童だったので、もしかしたら見せないように親から配慮されていたのかもしれません。

事件のことはなんで知ったんだろう……いろんな娯楽作品でネタにされているからだろうか。

いずれにせよ、今は立場上、あの事件のことをネタにするのは憚られるし、この『さよなら、ニルヴァーナ』を読み始めてからも、そういう美化した話だったら嫌だな、ってくらいの気持ちで読み続けていました。

 

善人

この小説は四人の視点で構成されています。

犯人の元少年のほか、彼に憧れる大学生、彼のことをネタにしようとする小説家志望者、そして彼に娘を殺された主婦。

誰も彼も、一枚岩じゃない。それぞれに後ろ暗さがあります。

特に家族に対する感情は暗い。一番平穏に見えるのは主婦の人だけれど、被害者遺族でありながら元少年に惹かれていることは誰にも言えない秘密です。

正直僕は前述の理由から、元少年が美化されるのはとても辛いし、だからこの主婦がどうして元少年に会いたがるのか理解に苦しんだ。普通殺したいくらい憎いんじゃないかなと思う。それでなくても、会いたいと思う理由が見つからなかった。

 

その点、一番わかりやすかったのは小説家志望者ですね。小説家になれないまま30代の後半に入る。焦燥感と閉塞感が日常に横溢し、帰省した実家では自分勝手な妹家族に翻弄され、打ち解けたと思った母にさえ体よく扱われていると気づいてしまう。

どこまでも救いのない、このまま朽ちていくしかない。そんな中で耳にした、元少年の噂話に、どのような感情を抱いたのだろう。腐った日常を破壊するような、そんな変化を求めていたんじゃないだろうか。

どう考えても善人ではない。読んでいてとてもつらいし、見ていられない。それでも、最後では、地獄に墜ちると覚悟を決める彼女はとても力強かった。

 

先に言ってしまうけれど、四人とも善人じゃない。誰もがどこかで、誠実さから目を背けている。良くも悪くも、それが全体的に緊迫感を生んでいた。

 

澄んだ訴え

最後に大学生の少女の話をする。

物語は後半に入ると、彼女と元少年の交流をフックにして話が進んでいく。彼女がどのようなことをしたのか、そして最後にはどうなったのか。時系列を歪めてまで、そこに焦点が当てられるのは、決して無意味じゃないだろう。

この二人の物語は、小説家志望者の話のような痛ましさはない。むしろ不自然なくらいに澄んだ交流が描かれていた。

少しくらい歪んでいるんじゃないだろうかと、疑いながら読み進めていたので、ちょっと予想外だった。

 

美しいとは言い切れない。元被害者の主婦の話も見ている自分としては、こんなに澄んだ空気の中にあっていいのかと、若干の引っかかりが残る。そういう意味では、元少年が施設で糾弾されたように、僕もなかなか割り切れない。

 

この大学生の女の子との関わりで、一度だけ元少年が心情を吐露したシーンがあった。

もうどこにも行きたくない、と。

それは作中の状況でもあるし、メタ的な訴えのようにも見えた。

ありとあらゆる娯楽の中で拡大解釈され、殺人鬼にも、偶像のようにも扱われてしまう。現実の元少年の叫びのような気がした。

平成がもう終わるというのに、まだネタにされるのは、たまったものじゃないだろう。

もちろん、本人がどうかは知らんけど。

 

まとめ

前述の通り、センシティヴな世の中が気になってしまい、引っ掛かってしまいました。

ただ、一番読み応えがあったのは小説家志望者の話で(一番つらい話でもあったのだけど)、人間の闇の深いところを抉っていこうとする姿勢、その覚悟は胸に残りました。

最初はこの小説自体が、その小説家志望者の書いた小説、とかいう構造なのかなと思ったのですが、「地獄へ墜ちていく」等の発言でようやく違うとわかりました。

そのような思考では、元少年の悲痛な言葉は浮かんでこないでしょう。ネタにするんでしょう、これからも。それが地獄ということですから。

【感想文】月の満ち欠け(佐藤正午)

導入

自分の知らない他人の子どもが、自分を知っていると語る。

目の当たりにした現象を噛み砕くこともできないまま、壮年の小山内は、るりと名乗る少女の物語に耳を傾ける。

 

ということで、生まれ変わり、前世の記憶をめぐる物語です。

いつだったか冒頭部だけを読んで、自分は多分好きな感じだろうなと思いました。

佐藤正午といえば、去年だかの直木賞作家でしたか。

確かそのときに『ジャンプ』という小説を読んでそれなりに楽しんだ記憶がありますね。

 


傍観

主人公となる小山内という男は、瑠璃という娘を授かり、別離の経験がある。

物語の冒頭に登場したるりはその記憶があり、さらに以前の記憶もある。

つまり主人公は、生まれ変わりを繰り返す女性の父親の一人。主人公が生まれ変わりかもしれないという、妻が抱いた疑念を耳にして、精神を病んでいると危惧した常識人です。

だから主人公は常に瑠璃の語ることに懐疑的です。物語の終盤になってくると、その思いは顕著に描写に現れてきます。


もしもこれが生まれ変わる当事者、あるいは生まれ変わる瑠璃が探し求める三角の視点であれば、ただのSF風のメロドラマに落ち着いていたことでしょう。

主人公が疑念を抱く。その視点は、単純な感動を退けます。これは本当にいい話なんだろうかと、読み手であるこちらにまるで訴えかけるようでした。

 


実際、これは単純な感動の話としては受け止めちゃならないんだと思います。

作中には一人、瑠璃をめぐる人物が登場します。生まれ変わりであることを信じてしまったために、とある凶行に及んだ人物が、主人公の対比として登場します。

この話が述べられるシチュエーションとあいまって、それは主人公の内面に楔を打つ。生まれ変わりを信じることは、この世の理に反することなのだと。主人公がしきりに男の顛末を聞きたがるのは、自分の未来を投影したからでしょうね。

 

木と月

木のようにと月のように。

この比喩が作中に語られます。

意味するところは、人のあり方です。

木のように種子を飛ばして後継者を育てていくか、それとも月のように時間をおいて元に戻るか。

生まれ変わりを繰り返す瑠璃は、自らの悲願のために月のような生き方を選んだ。選ぶことができてしまい、多くの人を巻き込んでそれに邁進します。

そして普通の人に過ぎない主人公を含めたその他の人々は、決して月のようには生きられないし、同じようには考えられない。

存在する次元が違うんですね。時に対するあり方が違う。

後継である世代と交わることは、僕らの社会は決して許さない。

 


木のように生きる人と月として生きる人は決して一緒にはなれない。少なくとも主人公は頑なにそう信じる。とある理由で心揺らぎそうになっても、自分の身の周りの世界を守るために、目を瞑ることを仄めかして終わります。

 


ジャンプを読んだときは、拘りのある文章が不思議だなと思っていたのだけど、この月と満ち欠けではより明確な意味を持っていた気がします。

細部に拘る文章、視点は、飛びそうになる思考を地に足つけたものにするためのプロセスなんですね。

勢いに乗ってドラマに流れていきそうになる展開に、待ったをかける。常識からの視点を忘れさせない。あるいは、忘れることができない。そんな作者なのだと感じました。

 


まとめ

交わらない人々の哀切が伝わってくる良作でした。

文章の面白さも際立ちますね。緩急があって、小気味好く頭に入ってくる。

欲を言うなら冒頭に登場する少女と母親の話をもっと読みたかったかなと思います。あと100ページくらいあっても苦にならないと思うんですが、それを書かなかったのは、結局同じことの繰り返しになるからでしょうか。

 


生まれ変わりというネタ自体は使い古されていると思うんですが、傍で巻き込まれる人々を語り手に選んでいるのが新しくて面白かった。

佐藤正午氏は合いそうなので、次は何を読みましょうかね。「鳩の撃退法」かな。