雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

浅田次郎『蒼穹の昴〈下巻〉』(講談社) 備忘録

 清国末期を舞台としたスペクタクルロマン。前回と同じように、付箋をはった個所を取り上げていく。

p87

 「全部のことね。ずうっと、ずうっと」

 王逸は頷いて、まさしく宇宙の一点に立ち上がった少女の身体を見上げた。小梅はまる一晩、「宇宙」の文字を書き続けたに違いなかった。表情は希望に溢れていた。

「そうだよ、小梅……宇宙は広く果てしない。君は、無限の宇宙の中にいる」

(文字の読み方を知らない貧しい少女、小梅。囚われの身である王逸の世話をしていた彼女に、王逸は文字を教える。しかし「宇宙」という言葉をどう伝えたらよいかわからなかった。一晩たって、小梅がその答えを自分で見つけ出した。彼女の中の世界が広がったことを確信する王逸。こののち、小梅は王逸を牢から脱走させる。そんなことをすれば、処刑は免れないというのに、彼女の目は喜びに満ちていた)

p146

「五千年の歴史はだてじゃないね。やっぱり僕らは、庭先で遊んでいる子供かもしれない」

 岡は降り注ぐ初夏の日差しを見上げて呟いた。

「そう。そして俺はいま、たしかにこの目で見た。わかるか、ケイ。あれが太陽や月を自在に動かすという進士だ。本物の選良というやつだよ」

李鴻章とクロード・マクドナルドによる香港租借の議定書締結を目の当たりにした、ジャーナリストである岡圭之介とトーマス・バートンの台詞。九九年経ったら反故にされる契約は、一見イギリスの一人勝ちに見える。しかし、たとえ清国がもうじき滅ぶとわかりきっていたとしても、やがて香港が帰ってくる未来を、李鴻章は見据えていたのであった)

p170

 だからお願いです。あなた方も私を愛してください。

 肌の色がちがう、ふしぎな風土と習慣で彩られたこの国の民を、同じ人間として、心の底から愛してください。

 それだけが――すべての人間に幸福をもたらす、唯一の方法なのですから。

(岡圭之介のインタビューに応じた春雲は、自らの経験を背に愛を説いた。貧しい生い立ちから宮中に入り、様々な思惑が交錯する中で、富を追い求めていたはずの彼は次第に考えを改めはじめていた)

p179

「西大后といういじましい女の、心の中の廃墟だよ。そうは見えんか、ケイ」

 晴れ上がった空の下に建つ廃院の塔の先に、十字架はなかった。

(隠退を願う西太后は皇帝から離れるべく新しい境界をつくり、そこを隠居所としようとした。しかし取り巻きの反対にあい、希望は潰えた。北京市街には寂れた教会の残骸だけが残った。そこに十字架はない。西太后の逃げ場所とはなれなかった場所には、救いの手の痕跡すら残されていなかった)

p194

 「なあ、春児。俺は、おまえに秘密を持ちたくはない。いろいろな人間に出会ったが、今でもおまえは、俺の一番信じたいやつだ」

(文秀と春児は家族同然の旧友だったが、宮中では敵対勢力のうちにあり、表立った接触はできなかった。隠れ家的な場所で相見えた二人。最初はお互い丁寧な口調で、本心を隠して語り合ったが、文秀は堪え切れず本音を打ち上けた。立場は違えども、二人が友であることには何の変わりも無かった)

p220

 「見ろよ、小李子。こいつは男を捨てて、何もかも捨ててきたはずなのに、人間の矜りってやつをちゃんと持っていやがる。だからてめえのお宝まで陳九にくれてやったって、平気のへいざなんだ。目をそらすな。見ろよ。神様ってのは、こういうもんだ。決して拝んだり頼ったりするもんじゃねえ。いつも貧乏な人間のそばにいて、いてくれるだけで生きる望みをつないでくれる、ありがてえ、かわいいものだ。春児を殺すならまずわしを殺せ。そうすりゃたぶん極楽に行ける」

(陳九の死体を無情に扱おうとする李大総監が、丁重な扱いを推す春児を処罰しようとすると、周りの宦官たちが一斉に抗議した。春児が必死で努力していたことを、周りの人たちはしっかり見ていたのであった)

p278

 ヴェロネーゼが、ティツィアーノが、ティントレットが追い求めた永遠の蒼穹を、あなたはとうとう、あなたの絵筆で描き出したのですね。

 あの日――あなたが走り去ったサント・ステファノの聖具室で、私は私の生涯を決めました。ティントレットの壁画の暗い空を見つめながら、夜の明けるまで泣きました。そして、すべてを棄てる決心を固めたのです。

 われらヴェネツィアンが追い求めた蒼穹を、いつか描こう。乾いた大地の上に四億の貧しい人々の生きるというチナのどこかに、ヴェロネーゼが、ティツィアーノが、ティントレットが憧れ続けた蒼穹を、私は描こう。あらゆる苦痛から解き放たれ、神を知らぬ人々が神の福音と同じだけの希望にうち慄える蒼穹を、この手で描いてみよう、と。

(貧しい、神を知らない人のために描く。この手紙の著者の思いが、やがて国境を越え、時を越えることになる)

p324

「それは私の分を越えている。たとえば愛する人にめぐり逢い、その愛を一身に享け、腹を満たし、肌の温もりを得られれば、そのうえ何を欲する。私はすでに満たされている。ゆえに死を怖れてはいない。いや、怖れてはならないのだ」

(譚嗣同の袁世凱に言い放った言葉。彼の決意の強さが、袁世凱の心を震わせる)

p324

 俺は決して満たされはしない。天下を、取ってやる。

 袁は獣のように吠え、密使の座っていた椅子を頭上に担ぎ上げると、窓に向けて力まかせに叩きつけた。

 副官が走ってきた。

「殺してやる。やつらの首を、ひとつ残らず菜市口に並べてやる。馬を引け!」

(出世を欲した袁世凱の心のうちは、譚嗣同の言葉を聴き、憎悪に満ちた。死を怖れない男への恐怖が逆巻き、どす黒い力となった)

p340

「お告げなんてそんなもんだ。運命なんて、頑張りゃいくらだって変えられるんだ。なあ、少爺、だから生きてくれよ。おいらがやったみてえに、白太太のお告げを変えてみてくれよ」

(処刑の場へと進もうとしていた文秀に駆け寄り叫んだ春児の言葉。出鱈目だったはずの予言を現実のものとした彼の言葉に、文秀は芯の砕けたように頽れる)

p377

「(中略)僕らはまるで、それぞれの国家の利欲のためにかつてこの国に送りこまれ、結局この国の土になってしまった宣教師たちと同じなんだ。聖書が取材手帳に変わり、協会がプレス・クラブに変わっただけのことだ。だが、僕たちは殉教を名誉だとは思わない。僕らの行為は、何一つ歴史を変えることはできないのかもしれないが、少なくとも今、僕らは歴史に参加している。もしいつの日か、香港に逃れた康有為が、日本に逃れた梁文秀が、この国の将来を変えるとしたら、それこそがジャーナリズムの栄光に違いない。僕は、そう確信している」

(日本のジャーナリスト、岡圭之介が時間稼ぎの最中に口にした本心。いつの時代も、国家のもとに振り回される者たちがいた。ジャーナリストもその一つで、岡はその中での矜持を説いた)

p400

 一時は心から死を希った。だが今は断じて生きようと思っている。どうか君も、そう思ってくれないか。生きて再び相まみえ、四億の民のために尽くそうではないか。そう、施すのではなく、尽くすのだ。

(日本への亡命中の文秀による、光緒帝への届くことのない手紙。文秀は春児を見、自らを助けようとした多くの人々を見て、統治者がどうあるべきかを悟った)

p404

 慄えを押しとどめるように乳房を抱きかかえながら、玲玲はようやく言った。

「がまんできないの。私、泣いてもいいですか。もう一生、これっきり泣かないって約束しますから、いっぺんだけ、泣いてもいいですか」

(夫である譚嗣同を失った玲玲もまた、文秀とともに亡命することとなった。その道すがら、夫のことを想い、一度きりの、謝罪に満ちた慟哭をする。文秀はその背中を見て、動乱の中で譚嗣同だけが民衆の痛みを知っていた英雄だったと悟った)

p410

「ああ、これはいったい……乾いた胸に命の水が満ちまする。生きる希みが、力が、勇気が、泉のごとく湧き出でまする!」

 春児は歓喜の声を慄わせた。

 それあ――いつかどこかで見た青空、命の耀きに燃えた、蒼穹のいろだ。

(龍玉を手にした春児の言葉。それがまがい物であることを彼は知らない。しかしそれでも、生きる力は確かに湧いてくる。運命を切り開くのは予言ではなく自分なのだと、図らずも彼はその生き様で体現しているのであった)

 泣いた。

 読書をしてこれほど泣いたのは久しぶりだ。さらにいえば、まったく悲しくないのに泣いたのはほとんど初めてのことだと思う。

 悲劇を描いて涙を誘う物語は数あれど、この物語はそれとは違う。描かれているのは出世の話だ。政治的な思惑の交錯する中で、人の生き方を模索し苦心する人々の話であり、最終的には概ねハッピーエンドと言える。

 それなのに胸を打つ。伏線のスケールの大きさに圧倒されたこともあるが、人の努力の成果によるストレートな感動が僕を包み込んだのだ。こんなことがあるんだなと感心さえした。読み終えた後の放心は並ではなかった。

 もちろんすべてが成功の物語ではない。下巻で登場する譚嗣同と春児の妹玲玲は幸せな家庭を引き裂かれる。間違いなく悲劇なのだが、悲しいだけではない。譚嗣同は国のために命をなげうち、玲玲はその姿を最後には受け入れている。二人の愛は死という深い溝を乗り越えて結びついているわけだ。

 愛を体現するキャラとして春児(春雲)がいた。物語の主役は彼だ。作中では宣教師たちにイエスの生まれ変わりとまで言われるほど人類愛に満ちた彼は、一方で貧しい生まれの少年という過去を持つ。先に取り上げた文秀との会話では、時折その少年の頃の口調が蘇っている。もしも死を願う文秀に向けられた春児の言葉がイエスのような言葉であれば、文秀は止まらなかっただろう。春児はごく普通の若者にすぎない。しかし人を惹きつけるほどの真っ直ぐな心がある。だからこそ、運命を打ち破っての成功への道を歩むことができた。

 そして文秀。物語の第二の主人公と言っても過言ではない彼は、主に政治上のやり取りで登場し、人一倍苦悩をする。国の存亡をかけた駆け引きの中、悩んで苦しんで、最後の最後まで後悔が続いた。天才的な頭脳の持ち主ではあるものの、その苦しみっぷりからみれば一番人間臭い人物ともいえた。

 魅力的な登場人物がとても多い。普段からキャラを追う読み方を苦手とする僕がこれほど書き綴ってしまうのは、それぞれの特徴や苦悩や成長が見事に描き出されているからだ。西太后李鴻章が初登場した場面での砕けた表現を読んだときの衝撃は強かった。歴史ものにもこんな書き方があるのかとびっくりし、苦手意識が吹き飛んだことをよく覚えている。

 そうだ、歴史ものが僕はすごく苦手だった。それも知らない中国の昔のことなど普段なら気に掛けない。それでもこの本を手に取ったのは、たまたま図書館で目についただけのことだった。それがここまで真面目に読み、胸を躍らせることになるとは予想だにしなかった。胸の充足感が半端ではない。今年の中ではまず間違いなく一番の読書経験をすることができたと思う。

 惜しむらくはこの本が借り物だということだ。本当なら自分で所有していろいろ書きこんだり蔵書印を押したりしたい。そうでなくとも読み返したい。なので近いうちに必ず買うだろうとは思う。