【エッセイ】街路樹
社会人になり、最初の赴任先は敷地内に緑が多かった。
「ここにいたら植物の名前を覚えるかもよ」などとの話を聞き、それは創作のネタになるなあ、などと内心喜んでいたのだが、実際の効果はどうだろう。
この幹は桜っぽいなとか、それくらいのことはさすがにわかるけれど、どの木がどの種類かどうか、一問一答形式で答えろとか言われたら、ほとんどできないだろう。
そこまで興味を持って植物と接することはできなかった。
やろうと思えば植物を調べることはできる。
名前、特徴、植生や育て方など、情報の正しさとか、そういったものは今は置いておいて、情報にアクセスすることはインターネットで簡単にできる。
だけど、それを作中に登場させるかどうかは別問題だ。
街路樹を書く際に、イチョウとかポプラとか、はっきりしたイメージがあるならば、どんどん書いていけばいい。
だけど、一部の箇所だけ詳しくて、他のところで力尽きているとバランスが悪い。
特別な事情が無い限りは、街路樹の一言で済ませることが出来る。想像するのは読者にお任せ。
書き手が全てを書く必要はないというのも、小説の特徴の一つだろう。
と、今までは考えていたのだが。
たとえば、工場地帯に整然と並ぶすらりと背の高いそれらと、駅前から延びる商店街の広場に鎮座する鷹揚に枝葉を広げたそれらと、海沿いの砂か何かを防ぐために鬱蒼と茂り沿岸に濃く陰を落とすそれらとは、すべてが同じわけではない。
もたらされる感慨も、空気感も、景色が違えば変わってくる。
もしももう少し木々のことを調べることで、それらのニュアンスが伝わるならば、これは必要と言えるのではないか。
植物ということで思い出すのは、梨木香歩さんの家守綺譚かな。
僕は作中の植物を、読んだ当時は全然知らなかった。
でも、まるで生き物のように扱われるそれらの植物たちのことは、見ているだけで楽しかった。
少し後になって、ようやくサルスベリがどんな植物なのかがわかったときには驚いたし、そのちょっとした華やかさと短命さがとても強く印象に残った。
それは初夏に咲き誇る植物で、街路に並んでいるということは、夏に来る人々を招いているということになる。
調べてみると、日本の街路樹の雑多さとか、マイナスなことも見つかるけれど、創作のなかでわざわざそんな、失敗例をあげつらうこともない。
綺麗な街路樹を描こうと思って、その意図を載せる。ちょっとは感じさせる。あるいは、感じさせる努力をしてみる。
効果の程は知らないけれども。
景色の描写はつくづく難しくて、疲れない程度に付き合いたいものですね。