雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

さえずらない日々

twitterスマートフォンから削除して数日経った。
ここで一ヶ月とか言えたらかっこつくのだけど、そんなことはない。日曜日からなので、二日だ。

 

何が嫌なことがあったというよりは、消してみようかなという試みで、今のところは何も不都合がない。


アカウントまで消していないのは、twitterでしか連絡を取っていない方が大勢いるからだ。


加えて、これからも小説同人誌の即売会には出席するだろうし、その諸連絡はtwitterが欠かせないと思っている。


急ぎの用事があれば、アカウントさえ残していれば、ブラウザからログインはできる。

 

 

 

スマートフォンからアイコンをタップして開くのと、ブラウザを介してtwitterにアクセスするのとでは、大差ないように見えて、かなり違う。


タップは無意識でできてしまう。無意識とは何も考えていないということだから、何も考えたくない時間が全てtwitterに置き換えられてしまっていた。


これでtwitterから出る度にログアウトするとかやりだすと、もっと上手に付き合えるのかもしれない。

 

困ったことというほどではないけれど、スマートフォンから削除したら、ブクログで読書記録のツイートができなくなった。もとよりあれはアプリの機能というよりは、スマートフォンに入っているtwitterに共有していた、という意味合いだったらしい。


このブログの更新ははてなブログの機能で共有ができる。そのようなことを気にもしていなかった。

 

 

浮いた時間を部屋の掃除に当てていたら、散乱していた衣服等が仕舞われて、部屋の床が見えるようになった。


当然日曜日からなので、二日。今日は特別片付けていないので、一日。たった一日あれば部屋はある程度綺麗になるものだったらしい。


こんな気持ちになったのは自然と、といえれば格好いいのだけど、そんなことはなく、『ぼくたちは習慣で、できている。』『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』(いずれも佐々木典士/WANI BOOKS)を立て続けに呼んだからだ。


後者のタイトルからも察せられそうだけど、この本はミニマリストの入門書のようなものだ。

 

 

 

今まで僕はミニマリストを森ガールとか理系女子みたいなお洒落トレンドみたいなものだと思っていたのだけど、どうも実際には新しいライフスタイルの提案だったらしい。

 

例として写真付きで掲載されていたミニマリストたちの部屋はショールームみたいながらんどうだった。ただのお洒落でここまではできそうにない。

真似もそうそうできないけれど、モノを減らしたいという欲は前々から心の隅にあったので、この休日を利用して一気に読んで、部屋を綺麗にしたいなと思うようになった。

 

 

 

前者は「習慣」についての本で、語り口調にまず惹かれた。薄すぎず、話し手が想像しやすい文章は親しみやすく、止まらずに読み進めることができた。


何かを習慣にすることは、何かを我慢することとは違う。我慢はいつか、破られてしまう。もっと無意識的に、自然とそれをやってしまうというのが理想的な習慣であって、そのためには良いところばかりを見るようにして、続けたくなるように仕向けたら良い。


二年間の作者の執筆時間を蔑ろにして、酷いくらいざっくり言ってしまえばそのような内容で、まんまと乗せられて朝は早く起き、夜になったら文章を書いている。

 

 

 

そう、実は文章を書いていなかった。小説用に、まとまりのない文章を思い出したように書き殴ったこともあったけれど、特に形になりもせず、データの名前すらつけないで散乱させていた。そのうち読み返しもせずに消すと思う。


同時期に仕事がどんどん忙しくなっていったのもあって、夜になると今日は疲れているからいいやと文章作成から離れ、それなのに近々新作が出るというゲームを二回もクリアしてみたり、懐かしのチャットサイトに入り浸って夜な夜な仕事の愚痴を吐いたりしていた。

 

そのことを悔やむほどには落ち込んでいなくて、ただ文章をまた書けるようになりたいなと、やはり二日前に思った。

 

習慣にするには、嫌だと思わないように、良いところばかり思い浮かべる。それが当たり前であるようになるまで。

 

ということで書いている。小説を書くのとは違う。小説を書くことと文章を書くことは、見た目は同じ作業だけど、多分まったく違うスキルだ。


小説は作品だから、形を整える。だから文章以外の時間や労力がかかる。ただ文章を書くことと、人に見せる文章を書くことの違いだ。


加えて、物語にするには何かがいる。テーマと呼んでも良いし、もっと単純に書きたいことと言い換えてもいい。形を変えて言えば自分がそれを書く理由だ。一朝一夕でできるものではなくて、忙しさを言い訳に尻込みしているうちに、疎遠になってしまっていた。

 

できそうだと見込んだ今を大事にして、書くことに慣れておきたいと思う。


キーボードの手触りや、液晶画面に連なる文字。その光景に慣れておけば、何かできるかもしれない。可能性だけでいい。何もできなくなるよりはずっといい。

トランクス

8年間持っていたトランクスを捨てた。
長い間履いていたからボロボロに、というわけでもない。どちらかといえば綺麗な見た目だ。
実はサイズが合っていない。引きのばさないと僕の腰には到底届かなかった。

 

そのトランクスは大学時代の友人からもらったものだった。
飲み会の帰りだったか、どうだかはっきりとは憶えていないけれど、その日僕は、彼の実家に泊まることになった。
彼は洋楽を聴いていて、リビングのパソコンでプログレッシブロックを流してくれていた。
僕はお返しに、吹奏楽部のディープ・パープル・メドレーを検索し、見せてあげていた。

 

シャワーを借りて、元の服に着替えようと思ったら、彼の母が下着を用意してくれていた。
「持ってって全然構わないから」
ほんの一瞬しか見なかったけれど、そんなことを、明るい調子で言ってのける人だった。


僕のいた大学は比較的、裕福な家庭が多かった。平たく言えばお金持ちだ。
その友人もどちらかといえばそのように言われる側にいた。
彼の家に泊まったあとで、別の友人達と会話になり、ケーキでも食べた? などと冗談めかして語られていた。
その冗談を彼も聞いていて、一緒になって笑ってくれるかと思ったら、顔を引きつらせた後に僕に目配せをして、すぐ背けてしまった。
違うよ、と言い張るにはもう遅くて、話題は変わってしまっていた。
ささやかすぎる後悔だ。

 


彼の家は小田急小田原線の経堂駅が最寄りだった。
泊まっておきながら遅めに起床した僕は、経堂駅へ向けて彼と一緒に歩いた。
彼は見送りだった。裕福だとかは関係なく、そういうことができる人だった。
薄青い空と、休日の穏やかな街並みに、東京は喧噪ばかりではないのだな、とかしみじみ思っていた。

 

「日本のロックならアジカンが好きだよ」
歩きながら彼が言った。
それが背中を後押しして、未だにあのグループの音楽を聴いている。
音楽通の彼が認めていたのだから、良いのだろう。そんなところだ。
判断は人に託すのが当時の僕の癖であり、今でもそれほど変わっていない。

駅のホームが見えてきた頃に彼は言った。
「晴れた日には富士山が見えるんだ」
その日は見えなかったのに、家々の間に浮かび上がるその情景は、不思議と想像しやすかった。

 


トランクスは無事、僕の家に来ることになった。
何度か履いたけれど、小柄だった彼向けのサイズは、相当にきつかった。
だから履かなくなる。つまり、汚れなかったし、すり切れもしなかった。
綺麗な状態のままだったそのトランクスが、引っ越しの折りに引っ掴んだ下着類の中に紛れていた。
だから、今住んでいるアパートにもそいつはいて、僕はつかんでは、大学時代の記憶を思い起こしてそっと戻していたりした。

 


で、ふと思い立って、捨てた。
いくらなんでも持ちすぎだろうという、心の中の声が大きくなり、笑ってしまい、ゴミ袋に放り込んで、週明けの収集場所に持っていった。
柄くらいならまだ憶えているけれど、いちいち書き記すほどのことでもない。

 

モノが捨てられないのは、捨てるという行為に罪悪感を覚えるからかもしれない。
罪悪ではないとはっきりわかっていれば、捨てられるのだと、捨ててから分かった。

 

友人とはすっかり疎遠だけど、名前は憶えている。元気でやっていてほしい。
そんなところだ。

 

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