【感想文】SPEED(金城一紀)
初めて読んだ金城一紀の作品は「GO」で、宮藤官九郎の映画版を見たのがきっかけだった。はちゃめちゃに面白かったのを憶えている。
小説の方は数年後に読んで、暴力性と無常観、それらを一本貫く精神性に非常に痺れた。
その「GO」をつい最近、といってもおそらく年末年始頃に読み返して、やはり面白いなあと感心していた。
「SPEED」を買ったのは、その感心からの流れだったと思われる。
「SPEED」は金城一紀によるザ・ゾンビーズ・シリーズの三作目である。
ザ・ゾンビーズというのは作品内に登場する落ちこぼれ男子高校生たちのグループのこと。
遊んでいたりはっちゃけていたりするうちに問題にぶつかって勢いで解決してしまう気持ちの良い連中のことだ。
シリーズ一作目である「レボリューションNo.3」は短編集。二作目の「フライ・ダディ・フライ」は長編。そしてこの「SPEED」も長編だ。
ちなみに僕は「レヴォリューションNo.3」は既読、「フライ・ダディ・フライ」は未読です。後者の方が映画化されているから、知名度はたかいのかな。
気がついたら巻き込まれて、というか首を突っ込んで、最終的には問題解決。
基本の流れは同じだけど、「SPEED」では視点を同年代の少女、それも落ちこぼれとはおよそ縁遠いお嬢様校の女子高生・佳奈子を視点として、ザ・ゾンビーズたちとの交流を描いている。
一人称で描かれているせいか、読み応えが過去作品とは結構変わっていることを受け容れられるかどうかが評価の分かれるところ。
単純な痛快劇を求めていたら、面食らってしまうかもしれない。
佳奈子の視点で描かれるのは、大まかに言えば自分の知らなかった世界への憧れだ。
彼女自身の好奇心が強くなるにつれて、物語は加速し、読者をのめり込ませてくれる。
だけど、佳奈子が知った世界はあまりにも遠かった。
憧れを抱くことの苦しさが、クライマックスで一気に押し寄せてくる。
みんなとこうやって走るのは、なんて楽しいんだろう。でも、わたしとみんなの背中が少し離れてしまった。
必死に走ってるのに。
また少し離れてしまった。
みんなみたいに思い切り太ももを上げて走ってるのに。
また少し離れてしまった。
みんなみたいにがむしゃらに手を振って走ってるのに。
また少し離れてしまった。
隠しようもない差がそこにはあって、飛び越えるには遠すぎる。
人はひとりひとり違うということを口にするのは簡単だけど、その違いを本気で悩むとかなりの痛み伴う。
その痛みがひしひしと伝わってきて、読み終えて数ヶ月経っている未だに頭の片隅に残っていた。
その痛みが、遅くなりながらも今日、感想を書き残しておきたいと思った理由だった。
もちろん、痛いだけでは終わらないのが嬉しいところ。
「SPEED」で描かれるラストシーン、世界が広がったあの描写、たまらなかったです。
【追悼文】平成バッドエンド(ひざのうらはやお)
平成30年11月、文学フリマ東京でひざのうらはやお氏のブースに赴き、「煤煙」を購入した。
どうして購入したのか書きたかったのだが、記録を漁っても一向に思い出せない。
僕は氏のブースをチェックしていなかった。
それ以前のイベントでもしかしたら無料配布を貰っていたかもしれないが、手元には残っていない。
「煤煙」を僕は楽しく読了し、翌年3月の第8回テキストレボリューションズでは氏を含めた神奈川周辺域作者によるアンソロジー「ジーク・ヨコハマ」を購入、「Dear Y」をこれまた楽しませていただいた。
このテキレボでもまた氏のブースに赴き、「おもちくんメソッド」と「しん・まんまるびより(さい)」を手に入れた。
どの小説、エッセイも、僕は素直に受け止めることができた。
年代や居住地などは意識する必要もなく、ごく率直な感想として、氏にはちかしい印象を抱いていた。
ひざのうらはやお氏は先日の文学フリマ東京を最後に一旦執筆活動を停止する。
氏にとって創作の熱源になっていた「おもちくん」という存在が消失したことがその理由である、と氏は語っていた。
僕には「おもちくん」がどのような存在であるかはわからない。
氏そのものと出会ったのも先日の文学フリマ東京が三回目、小説は今回の「平成バッドエンド」で二冊目である。
決して氏のことを理解しているとは言えないだろう。
ちかしいとは思いつつ、自分が何を感じているのか、明確な言葉で表すことはできなかった。
僕は氏の、あるいはおもちくんの、十全な活動状態を知らないままだ。
すごかったのだろうという推測で、当たり障りのない言葉を重ねて惜しむのは、著名人の死に際しツイッターでご冥福をお祈りするようなもので、白々しさが抜けきれない。
だから、追悼しようと思いついたとき、僕にそのような真似をする資格があるのか、迷いはあった。
それでも書こうと思ったのは、先述した親しさの感触を忘れられなかったからだ。
僕はひざのうらはやお氏と知り合った経緯を忘れた。
だから、別れるときの感触くらいは書き残しておきたくなったのだ。
「平成バッドエンド」
収録作は「平成デッドエンド」及び「平成アポカリプス」の連作、「猫にコンドーム」という短編、エッセイとしての「さらば目に映る平成たち」、そしてあとがき。
「平成デッドエンド」
心のどこかが欠けているような少年が、常識を少し飛び越えた雰囲気のある女性と遭遇する。
世界の終わりに際して続く軽妙なやりとりが、現実感の薄さに拍車を掛けていく。
不穏な空気に打開策も見いだせないまま、誰も何も悪くないのに、ふと気づいたら底の底にたどり着いていた。
旅をしているはずなのに、外の世界は荒廃している。人を人たらしめる繋がりさえも醜く潰えた。そして少年は世界の終わりを目の当たりにする。
こうかくと鬱々とした物語かと身構えてしまいそうだが、実際には湿っぽさはあまり感じなかった。何かが足りていない感じがずっと続いていて、その喪失の延長線上にあると思うと、終わり方も自然に受け止めることができた。
「平成アポカリプス」
この小説のことを書くと激しくネタバレになってしまう。
連作と書いている時点で今更という感じだが。
世界は徹底して終わりを迎えていて、残骸ばかりが残っている。
血も汗も残らない世界では、人間としての痕跡すらなくなっていくのだろう。
それが悲しいのか、嬉しいのか、あるいはそのどちらでもないのか。
終わり方に対しては読み手各人に思うところがあるような気がする。
「猫にコンドーム」
前の二つ、ついでにいえば「煤煙」とも打って変わって勢いよく自我が本流していくので面食らった。
こんな作品も書く人だったのかと驚かされて、作品内の小説を読んでさらに驚く。
その作中作が出たあたりから、物語の雰囲気が落ち着きを取り戻していく。
地の文に流れていた自我が台詞に現れるようになったのは、はっきり主人公の変化だと言えるだろう。
欠けていたものと喪失が掛け合わさって、埋め合わされる。
思いのほか綺麗な情景で、物語は終わりを迎えた。
「さらば目に映る平成たち」
平成の初期に生まれたという氏の半生が綴られていた。
登場する物事に関してはつかず離れず。微かな希望と、おそらくはこの原稿を書いている途中で消失した「おもちくん」への想いが込められているようだった。
収録作品を読み返してみて改めて思ったが、僕はやはりひざのうらはやお氏をつかみ切れていない。
氏が目指しているものが何なのかも正直わからない。
ただ、その胸のうちに潜められた寂寥感が現れていて、時折激しく脈動する文章には愉快な気にさせられる。
その愉快さの中にひやりとした毒を混ぜるのがとても良い。
氏が書けなくなった経緯については、氏本人のブログに書かれているし、それを見た上でああじゃないかこうじゃないかと適当に推測を並べ立てるのはおこがましいのでやめておく。
言いたいことはあった気もするし、日中に諸々考えていたのだが、ようやくこの記事に取り組めている今になって、結局のところ思いつくのは、おもちくんの復活を願うことばかりだ。
言葉は形になった途端にすでに死んでいる、とはどこかの哲学者の言葉だったか。
死んでいるところの文章を辿ることで、僕はおもちくんの輪郭を意識することができる。
しかしそれ以上に迫ることはできない。
僕の活動の先に、氏における喪失に類するようなものが待っているのかもしれないと思うと、かなりの不安が押し寄せてくる。
はっきりいって、氏のことを知りたいと思うのは、僕が死にたくないからというのもある。
傲慢な考えなのは承知で言うが、僕よりずっと先を行っていた氏が、何に苦しんでいたのかを僕は知りたいし、学びたい。
だから今後も「平成バッドエンド」を読み返すことがあるように思う。
氏との関わりも薄く、氏の作品を分析対象として見ているような僕に、本当に追悼の意志はあるのか、自分でもわからなくなってきた。
だが、この記事が同時代を生きていたひとりの小説家への慰労であることは、決して変わらないはずだ。
どうか書けないことを重荷に思わないでほしい。
それができたら苦労はしないのだろうけれども、どうしても言いたくなった。
願わくば復帰を、それがかなわないにしても、氏の息災を祈る。
雲鳴