雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

極めて個人的な第28回文フリ東京参加レポ

「なんでそんなまどろっこしいことしてるんですか」
こんな不躾な質問をされたのは、今年の三月の話だった。
テキレボ8が終わった直後の、とある昼下がり。相手は仕事の中でたまたま出会った人だった。だから、どんな人かも碌に知らない。

最近の僕は本を書いている話を昔よりは人にしている。知らない相手であるとなおさら話しやすい。
このときの方も、打ち明けると食い入るように質問してきた。
あちらこちらの成功している人に興味がある、みたいな雑談を僕は聞き流していた。

本を書いていることから頒布していることに話題が移り、自然とイベントのことへと移る。
先にも言ったテキレボの様子を見せたり、活動している人のアカウントを見せてみたりした。

そして最初の問いが降りかかる。悪気はなかったのだと思う。実際、そのような即売会に縁がなければ、言いたくなる気持ちもわからないでもない。
紙の本に印刷して、ブースを設営して、全国各地のイベントを練り歩く。
耳慣れない人からすれば、これらの行いは全て、小説を書くという行為からは逸脱して見えるのだろう。

発表の場所はインターネット上にたくさん用意されている。投稿サイトは潰れて生まれてを繰り返す。
公募も冊子に載せきれないくらいあって、趣味に終わらせたくない人はいくらでも試すことが出来る。
そのような環境が用意されているなか、紙の本を刷って並べて頒布して、大荷物抱えて行脚するその意味合いは。そのような活動をしている意味は。
つまりは、僕がそこにいるのはどうしてなのか。

これが問いの本質だと頭の中で理解しつつ、紙本が好きとかイベントが好きとか、心にもない浮ついた言葉で結ぶのも癪に障って、結局は「何ででしょうね」と繰り返して乗り切った。以来、あの人とは食事に行っていないけど、そんなことはどうでもいい。

 

何でも良いから趣味が欲しいと思って、小説を選んだ。正直、最初は好きというフリをしていた。子どもの頃から小説に慣れ親しんでいた人たちの輪に、入っているようなフリをしないと、何もない自分がバレてしまうと思ったからだ。
とある投稿サイトに入り浸っていた時期があり、そこで出会ったとあるレビューの話を時折人にすることがある。
僕の書いた作品について、「技巧的だけど主張がない」と言い置いたレビューだった。
人に話すと同情してくださったりして、もちろん嬉しいのだけど、もうひとつ、別に思うところがある。
あのレビューは、僕の作品がまだ未熟だと指摘してくれた。
その指摘を意識すれば、「好きなフリ」という外面が剥がれるのかもしれない。
僕は本当に小説を好きになれるのかもしれない、という期待を抱いてしまった。

 

以来、テーマとは何かを考えて、短い小説を80本書いた。
いくつかのお話は本の形に頒布して、懇意にしていただいた方に寄稿もした。オンラインの小説サークルに所属して書き殴り、そこがなくなった後もイベントに出続けていた。
だけど、正直息切れをしていた。
2018年に入る頃にはもう製本する気力もなくなっていて、受けが良かった昔の短編をコピー本にして頒布した。
7月に開催されたテキレボ7。
僕はクラゲの短編をアンソロジーに提出し、隣にずんばさんがいて、目の前には転枝さんがいた。
二人がツイッター上で絡んでいるところに、僕が面白がって横やりを入れたら会話が始まってくれた。
気がついたら、疎み始めていた自作品を何故かもっと頒布したいと願う一人として、ずんばさんの工夫に耳を傾けていた。
僕は何のフリもしなかった。
恐れることなく小説家と名乗れるようになったのは、きっとあのときからだった。

その後に僕が出たイベントはテキレボ8と、昨日の第28回東京文フリの2回だ。
どちらも、僕がやりたいと思ったから出たにすぎない。
先だっての質問の答えを考えるよりも先に身体を動かしていた。

たまたま僕の環境が変わらなくて、今年は比較的動きやすいので、今後もイベントにはいくつか参加してみたいと思っている。
紙本が好きというわけでも、イベントの雰囲気が気に入っているわけでもなく、僕にはそれができるからやる。できないという言葉に値する理由が思い浮かばない限りやってみる。
とはいえ、この環境はおそらく今年一年限りだろうという予感はある。
これ以上仕事が忙しくなったら、小説を書き続ける為にはイベントは控えざるを得ない。
あくまでも小説を書くことが僕のやりたいことだから。

イベントに熱を入れている人たちには憧れている。これは本心からだ。
その行為には十分に意義があるだろうし、文学フリマを含め、多くの文芸系イベントが盛り上がってくれるのは嬉しいことだ。
僕はその主流にずっとついていくことはできない。
けれど、今は流れに乗っていたい。
いつか離れるとしても、時折思い出したように寄ることができる空間であって欲しい。

そのときに、なるべく多くの人とご挨拶がしたいので、今動けるうちに、小説家であると喧伝したい。

これは欲だろうか。
欲だろうな。
欲でも良いんじゃなかろうか。
欲するからこそ得るわけで、僕の血肉になるのだろうからね。

 

 

 

さて、第28回文フリ東京
記録のための頒布実績公開です。
新刊:C'mon Spise!   8冊
準新刊:火竜の僕は勇者の君と一度も言葉を交わさない  8冊
既刊:台車は虚空の死体を運ぶ  4冊(完売)
既刊:綾は千々、されど同じ学舎の中で  2冊
既刊:From AI to U  2冊
頒布数合計:24冊

おまけ
フリーペーパー(文フリ大阪新刊予告):21枚以上(離席中におそらく+5)
黄泉しぐれお題募集:5題

以上です。
「カレー」(C'mon Spice!)も思ったより出たし、「火竜」はご新規さんが多かったです。どういう経緯で購入されたかは聞かなかったのですが、迷わず買ってくださったかたを見ると、ツイッターカクヨムからなのかな。
「台車」の完売を祝いたい。タイトルやあらすじに惹かれたという方が多くて、嬉しいです。書いて良かった。本にして良かった。
「台車」の本編は文フリ大阪新刊予定の「拡張現実試論」にて掲載予定、Scraivでも配信します。
「From」「綾千々」も定期的に出てて私は嬉しい。どちらも残り5冊切ってますので、今年中に捌けるかどうか。


その他、寄稿させていただいた3サークル様の実績も確認しています。どれも好調だったようで、ホッとすると同時に、僕の作品がどう読まれるかはちょっと怖くもありますね。


そして僕はひざのうらはやお氏と「これ1冊」「あ、これも」以外の会話をすることができた!!! さも当然のように!!! 目を合わせて!!!
今回のイベントで一旦活動休止と伺っていたので、これを逃したらおそらく一生ひざのうらはやお氏の旋毛しか思い出せないと内心焦っていたので私は勝手に一安心しています。

前日に唐突の食事に快く受けてくださった九十九さん、当日に唐突に祝賀会に乗り込ませてくださった紗水さん、転枝さん、参加されていた方々、みなさん本当にありがとうございました。生転枝無双は素晴らしかった。

ずんばさんからの連なりでジーク・ヨコハマと出会い、ヨコハマ勢と出会い、何だかんだで知っている人が増えてきている。
今まで一人で参加して疲弊していた文学フリマというイベントが、なんだか別のものに見えてきた。
書いている人は大勢いて、中でもヨコハマ勢のように自分の書きたいものを一等打ち出している人々はとりわけ輝いてみえる。
その一方で、未だ代表作らしいものが打ち出せていない自分に焦ってもいる。

 

だいたい文学好きでも嫌いでもないと言っていたはずの僕が焦っていることそれ自体が問題であって、気にしないでいればいいものを、今年中に何とかしたいなどと考えてしまっていて、妙なプライドというか壁を作っておきたいいつもの癖というか、そんな感じのあれそれが邪魔をして、抽象的なツイートを零して深夜に喚かせている。

 

第一展示場の広さや動線について、見本誌が完全に他室だったことなど、気になったことは多々あった。おそらく似たような不満は多くの人が言っていて、それらすべてに受け答えすることもまた不可能だと思われる。
そして頒布できる人はできる。自分のウリを見いだせる人は説明できる。
そういう人になりたいな、と憧れてしまう。

 

 

 

 

ちょっと先の話をしたい。


「黄泉しぐれ」について考えていた。
いろんな死に際のお題を募集したように、元々は死に際を取り扱う伝奇ホラーのようなものを書こうと思っていた。
ただ、少し考えたくなることがここ数日の間にあった。
それが何なのかは言いたくないし、このような気持ちを抱いている自分ははっきりいって「悪」だと思う。


イデアを思いついたとき、当初の僕はそれを打ち消した。

それはやってはいけないことだと、決めつけて、封印しようと思った。


ただ、文フリを通して、というかそのあとの打ち上げで、本気を出している方々を見て、湧いてくるものがあった。


たとえ「悪」だとしても、むしろ「悪」だからこそ、本気で書くことができるんじゃないだろうか。

 

僕が今思い浮かんでいる「黄泉しぐれ」は、とても残酷な話だ。
今までの僕が書いた作品のどれとも似ていない。「拡張現実試論」にまとめようと思っている5つのテーマのどれにも即していない。新しい領域。
それは僕が今まで目を背けてきたテーマでもある。


もちろんまだ最初の構想の段階でしかなく、これから11月までに本にするには、止まっている暇はないだろう。

「拡張現実試論」を作りながらなのだから、なおさら狭まってくる。


ただ、挑戦したいと思った。
思わせてしまったってことは、文フリに参加されていた方々に知っておいてもらいたい。
文フリに参加し続けていなければ、あらゆる意味で、このようなお話は思いつかなかったのだから。

 

思わせぶりなことを言っておいて、まだ決まってはいない。
その代わりキャッチコピーだけはやたらと浮かぶ。


「黄泉しぐれ」は頒布前にカクヨムで掲載したい。
カクヨムは一部掲載という形を明確に禁止しているので、やるなら本文全部を載せなければならない。
その掲載時に記載するキャッチコピー案として、現状最も有力なものを以下に記していく。

 

奇跡なんか死んでも起きない

 

これを指標に、秋文フリ新刊「黄泉しぐれ」のプロットづくりをしていこうと思います。

さよなら平成

 僕は平成3年12月18日の生まれであり、一週間後の25日、ソビエト連邦は最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、世界地図からその名を消した。

 僕はこのエピソードが気に入っていて、生まれ年の話になるといつもつい口にしてしまうのだけど、大抵はぽかんとされる。まあ、どうでもいいことなのかもしれない。僕自身、このことを知ったのは、ずっと後だ。

 ソ連という名前は先に歴史の授業の中でだけ見かけていて、もうずっと前になくなったものだと思っていた。そんな国が自分と一週間だけダブっていたということにわけもなく面白いと思って、受けないとわかっていても未だに口にしてしまう。

 

 平成という時代をほとんどなぞる形で僕は成長した。

 とはいえニュースにはあまり興味を抱いていなかった。

 阪神淡路大震災地下鉄サリン事件も当時のことは記憶になくて、あれだけ好きだったはずのドラえもんの作者が亡くなったことも憶えていない。

 記憶しているニュースとして最も古いのは平成13年の9.11だ。それ以降のニュースになると「ああ、あったね」と素直に頷けるけれど、それ以前のニュースはどうしても記録としてしか認識できない。

 

 小学校時代にはたくさんの玩具が溢れていた。

 ミニ四駆に始まり、ベイブレードやカードゲームが流行っては廃れ、また流行るのを繰り返していた。

 最後にはカードゲームが一段高い立場になって、やっている人は大学時代まで続けていた。

 

 ゲームは登場したそばから人気の高い玩具であって、特に任天堂が繰り出すパーティゲームはソフトを持っているだけで放課後の遊びのホストになることができた。

 これは主に僕が担当していた。

 多人数参加型のゲームを買えば、とりあえず人と遊ぶ口実になった。

 そんな隠しきれない下心で引っ込み思案な性格を隠してホストになり、まるで自分が中心人物であるかのような錯覚を得ることを喜びとしていた。

 もちろんそのような性癖を僕は誰にも言わなかったし、親からしてみたら他所の子たちばかりが良い思いをしているようにしか見えなかったわけで、そのうち僕はゲームをすることを禁止された。

 

 ゲームを禁止された僕が真っ先に恐れたのは流行に取り残されることだった。

 世間ではPS2やXboxが発売され、高水準のグラフィックのゲームに皆がのめり込んでいく中で、非デジタルの遊びはものの見事に駆逐されていった。

 唯一の脱出口は戦略性の幅が売りだったカードゲームだったけれど、まとまった単位でのパック(ブースターパックとかストラクチャーデッキとか呼ばれていたもの)についての知識もなく、カードはコンビニで一回5枚ずつで買うものだと思っていた僕は、戦略性も何もなく、何もせずにライフが削られていくので全く楽しめなかった。

 レアカードを集めるためのガチャガチャとして楽しんでいたように思う。

 

 カードゲームで主に流行っていたのは遊戯王だったけれど、五年生か六年生の頃に一瞬だけデュエルマスターズが流行った時期があった。

 その流行は一学期に突如として発生し、僕も慌ててデュエルマスターズのパックを買い求めた。

 夏休みに入って、明けて、学校に通い始めると、周りもみんなが持っているカードが遊戯王に戻っていた。

「もしかしてもうデュエマって流行ってないの?」とクラスメイトに質問すると白けた顔で頷かれ、僕は夏休みの間にせっせと買い集めたデュエルマスターズのカードを全て破いて捨てた。速くしろと心臓が急いて煩かった。

 あれからしばらく、カードゲームで遊んでいるクラスメイトを見かけるたびに手汗を感じるようになった。

 

 中学生に上がるとクラスの中がはっきりと真っ当な流行に乗る者とそれ以外とで二分されるようになった。

 それ以外グループは一括してオタクとされていたけれど、内情としては皆が皆、いわゆるオタクコンテンツとしてのアニメや漫画を好んでいたわけではない。

 メインカルチャーに浸かることがどうしてもできなかった者たちが寄り合い所を求めて集まっていた。僕は後者だった。言うまでもないと思うけれど。

 

 僕の家にはパソコンはあったけれど、置かれている場所が居間だった。アニメや音楽はやめた。逆に、音や映像さえ流れなければ視線を気にすることはなかった。

 折良く世間では「電車男」のブームが到来して、「2ちゃんねる掲示板が世に知られるようになった。

 僕は毎日のように掲示板に入り浸って、文字データとしてオタクコンテンツを摂取し、素人丸出しの、例えば会話の途中に無理矢理ジョジョネタを放り込んでみるとか、そんな雑なやり方で浪費していた。

 受けるときもあったけれど、大概は嫌がられた。どうでもよかった。

 どうせ匿名だし、自分の言葉で誰かが反応するのはそれだけで気分が良かった。

 相手が苛々を募らせて長文で怒り始めるとなお気持ちよかった。

 あの頃「荒らし」と呼ばれていた連中は、おそらくほぼ全員が僕と同じような人だったのだろう。

 

 中学生も終わりに差し掛かるころにアニメやライトノベルのブームが来て、普通の生活の中にその影響を垣間見るようになった。

 高校に入って何かの出し物で先輩方が「ハレハレユカイ」を踊っていて、中学校との価値観の違いに眩暈が起きた。

 虐げられている者しか享受できないコンテンツだったはずでは? 

 常識だったはずのこの価値観が、知らないうちに遠ざけられていた。

 メインカルチャーの話題を書き込んだら蜂の巣にされた2ちゃんねるで、平気でBUMP OF CHICKENRADWIMPSの話題を目にするようになり、mixiが流行りだしてからは皆が当たり前のように現実世界とは違う自分を、インターネット上に非匿名で書き残すようになった。

 

 価値観の変化への戸惑いが薄れないまま高校生が終わる頃にニコニコ動画に触れた。

 2ちゃんねるの中にだけ存在していたはずの、いかにもな、ニコニコ動画に触れている人以外には理解できない、理解しない人のことは平気で馬鹿にしていいという、巨大な内輪のやりとりが、映像を媒体にしてコメントとして繰り返されていた。

 匿名性はもちろん、コメントへのリプライすらも無碍にされていった。

 誰も返事を期待してない。返事を律儀に追うこともしない。

 コンテンツは違法に切り貼りされてネタとして消化されていき、ネタのためだけに存在するようなコンテンツさえも作られて放逐され玩具にされた。

 とまあ、今となっては言えるけれど当時は単純にその巨大な内輪に入っているのが楽しかった。

 そこにさえいれば仲間でいられた。

 夏休み明けに流行が終わっていたと気づいて悲しむこともない。

 毎日ニコ動にアクセスさえしていれば、それだけで流行を追うことができた。

 大学生になった僕は当たり前のようにニコ動の話をして、当たり前のようにニコ動の話ができる友人だけを選んでいき、話が通じる連中だけのぬるま湯に浸った。

 

 Twitterが始まってからは毎日どころか毎時間コンテンツを享受できた。

 タイムラインを眺めているだけで流行のコンテンツを知るようになり、見たこともないアニメの面白いつまらないポイントを抽出して馬鹿にすることができた。

 メールボックスは一切開かなくなりLINEでのやりとりが主になった。

 Facebookを企業が重視するという噂が流れてからは皆と同じように登録して意識高い系の活動を探して漁った。結局何もしなかったけど。

 

 SNSが当たり前になった頃に僕は社会人になった。

 Facebookは不活発、LINEも全く連絡が来なくなり、大学時代の裏アカウントを再利用した小説家「雲鳴遊乃実」名義のTwitterだけが辛うじて生き残っている。

 

 コンテンツを享受することは、前ほど苛烈ではなくなった。

 大学時代まで続いた一連のコンテンツ摂取活動は全てクラスメイトとの話題作りのためであって、本気で気に入って摂取していたものは、たぶん一割もなかった。

 

 巨大な内輪を拡大させ続けたニコ動で、まとめサイトの声あて動画を見て、鳥肌が立つくらい気持ち悪いと思ったことがあった。

 いや、声が気持ち悪いというわけではない。匿名で2ちゃんねるの人たちが垂れ流していた雑談を、勝手に自分達の玩具にしてしまう行為が、だ。

 そしてその気持ち悪さは、今までコンテンツを友達作りに利用していた自分にも当てはまるよな、と気づいたら歯止めが利かなくなってニコ動に居座るのをやめた。遊び方がわからなくなってしまったんだ。

 

 平成という時代を通して、たくさんの玩具を見てきた。

 それで遊んでいるときは仲間がいた気がして楽しかった。

 実際、2ちゃんねるもニコ動もなかったら僕の人生はもっとずっと沈んでいただろう。あったからこそ、大学時代も辛うじて話題を絞り出すことができた。

 それさえない大学生活はちょっと想像できない。

 もっと有意義な過ごし方ができたはず、というのは思い上がりだろう。

 自堕落に輪を掛けてだらけて、虚無感を弄んだまま田舎に引きこもっていただろう。

 

 先ほど辛うじて生き残っていると書いたTwitterで、僕は小説執筆をとおして、仕事以外のつきあいを続けている。

 小説を書くと言うこと自体、パソコンが一般に流通して印刷製本の手続きも簡素化されたからこそ成せるものであって、たとえばこれが昭和の時代だったら僕は趣味としてさえ活動し続けられなかったように思う。

 度々東京へ赴く動機さえも見つけられず、地元でも必要なものは買えるんだし生きていけるしお金勿体ないし、と言って引きこもることは簡単だ。

 それでも、やろうと思えばもっと別のことができそうな気がする。

 少なくとも可能性があるから、調べることができる。

 平成というのが良かったか悪かったのかと聞かれたら、この可能性を押し広げてくれたという一点において、十分良かったと言えるんじゃないだろうか。

 

 先ほどは少しネガティブなことばかり言ってしまったけれど、ニコ動出身のアーティストが活躍しているのを知ると無条件で嬉しい。

 裏表ラバーズが初めて嵌まったボカロ曲だった僕は、今月の初めに作者が亡くなったと聞いて、しばらく呆然とした。

 そうかと思えば先日は元やる夫系(アスキーアートに会話をさせて繋いでいく物語記述形式)出身者が松本清張賞を受賞したりして、これまた嬉しかった。

 嬉しかったり悲しかったり、感情が動いているのだから、それを虚無と言ってしまうのはやはりどこかズレている。

 

 僕は確かに平成を生きていた。

 何も得られなかったように見えるけれど、たぶん何かが残ってくれているのだろう。

 

 令和でも、様々なものを知って学んで、成長できることを願います。