雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

輪郭

大学時代、都内某区で周辺住民向けの運動施設に行ってみたことがあった。

数百円の使用料を支払って、ランニングマシーンで走ってみたら、あっという間に息が上がった。

脈打つ身体に意識を配り、ああ自分は確かに生きていたんだな、などと妙なことを考えたりもした。

 

生きているか死んでいるかでいったら、それは当然生きているのだけれども、ふとしたときに生きていることを思い起こされるときがある。

自分が今部屋の中にいるということを、普段よりも強めに意識する。椅子の上に座り、足の先で床をつつき、体重は少し前気味にかけて、窮屈な姿勢でいる。それが今の僕だ。

身体の感覚を研ぎ澄ませるのに、なにも高尚な構えなど必要はなく、自分が占拠している空間に想いを馳せると、まるで自分の体の輪郭が明瞭になってくるような気がして、結構楽しい。

 

身の振る舞いに気をつける人とそうでない人の一番の違いは自分を見つめる他者をどれだけ意識するかによる、という話を昔聞いたことがある。

ややこしい言い回しになってしまったが、要するに人がやっているのをみて嫌だなと思うことはしない人か、他人のことなど気にしないかのどちらかという話だ。

他人の視点を気にしないと覚悟できているなら結構な話だけれども、他人を意識せざるを得ない人も、特に社会人には大勢いるのだろう。

なに分抽象的な言い方だけれど、僕も意識せざるを得ない人で、意識した方が諸々スムーズにいくと思うようになってからは、必死になって他人とのやりとりを勉強するようになった。

 

他人を意識するには、まず自分を客観的に見ることが肝要で、そのために先ほど言った自分の輪郭を明確にすることが大切になってくる。

自分そのものをいくら鏡で見つめても答えは見つからない。自分が占有している空間をこそ意識して、ようやく輪郭は見えてくる。

輪郭は物理的なものばかりではなく、単純に言えばその人の職場の役割や役職なども含まれる。

自分を構成するものはなんだろうと考えて、自分の立ち位置が明瞭になっていく。

簡単にできそうで、そうはいかない。なにかが邪魔をする。

 

輪郭で自分を捉えることの一番のメリットは、自分がそれほど大人物ではないと気づくということだ。

理想と現実のギャップに人々は苦しんで、理想を夢に描きつつ、現実ばかりをやがて見るようになる。

輪郭が曖昧な人ほど理想と現実のギャップが激しい。輪郭がぼやけている限り、いつまでも理想の自分を想像できる。理想以外想像しないのが一番楽なことだ。

それでいいのか悪いのか、面と向かって口出すことは憚られる。よほど親しくないと言えないだろうし、親しいからこそ言えないということもありうる。

 

輪郭とは自分自身のことといえて、その輪郭が定まっているからこそ、感受性は働く。

自分がいる空間、そこにいる自分が受け取る知覚。意識するには、自分と他との境目に気を配る必要がある。

境目で起きる知覚が輪郭の正体なのだろう。人以外の物を描くことで、人が浮かび上がる。

浮かび上がる人の中に読者も入ることができる。これが、情景描写の狙いなんじゃないかと、期待を込めて推測している。

さえずらない日々

twitterスマートフォンから削除して数日経った。
ここで一ヶ月とか言えたらかっこつくのだけど、そんなことはない。日曜日からなので、二日だ。

 

何が嫌なことがあったというよりは、消してみようかなという試みで、今のところは何も不都合がない。


アカウントまで消していないのは、twitterでしか連絡を取っていない方が大勢いるからだ。


加えて、これからも小説同人誌の即売会には出席するだろうし、その諸連絡はtwitterが欠かせないと思っている。


急ぎの用事があれば、アカウントさえ残していれば、ブラウザからログインはできる。

 

 

 

スマートフォンからアイコンをタップして開くのと、ブラウザを介してtwitterにアクセスするのとでは、大差ないように見えて、かなり違う。


タップは無意識でできてしまう。無意識とは何も考えていないということだから、何も考えたくない時間が全てtwitterに置き換えられてしまっていた。


これでtwitterから出る度にログアウトするとかやりだすと、もっと上手に付き合えるのかもしれない。

 

困ったことというほどではないけれど、スマートフォンから削除したら、ブクログで読書記録のツイートができなくなった。もとよりあれはアプリの機能というよりは、スマートフォンに入っているtwitterに共有していた、という意味合いだったらしい。


このブログの更新ははてなブログの機能で共有ができる。そのようなことを気にもしていなかった。

 

 

浮いた時間を部屋の掃除に当てていたら、散乱していた衣服等が仕舞われて、部屋の床が見えるようになった。


当然日曜日からなので、二日。今日は特別片付けていないので、一日。たった一日あれば部屋はある程度綺麗になるものだったらしい。


こんな気持ちになったのは自然と、といえれば格好いいのだけど、そんなことはなく、『ぼくたちは習慣で、できている。』『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』(いずれも佐々木典士/WANI BOOKS)を立て続けに呼んだからだ。


後者のタイトルからも察せられそうだけど、この本はミニマリストの入門書のようなものだ。

 

 

 

今まで僕はミニマリストを森ガールとか理系女子みたいなお洒落トレンドみたいなものだと思っていたのだけど、どうも実際には新しいライフスタイルの提案だったらしい。

 

例として写真付きで掲載されていたミニマリストたちの部屋はショールームみたいながらんどうだった。ただのお洒落でここまではできそうにない。

真似もそうそうできないけれど、モノを減らしたいという欲は前々から心の隅にあったので、この休日を利用して一気に読んで、部屋を綺麗にしたいなと思うようになった。

 

 

 

前者は「習慣」についての本で、語り口調にまず惹かれた。薄すぎず、話し手が想像しやすい文章は親しみやすく、止まらずに読み進めることができた。


何かを習慣にすることは、何かを我慢することとは違う。我慢はいつか、破られてしまう。もっと無意識的に、自然とそれをやってしまうというのが理想的な習慣であって、そのためには良いところばかりを見るようにして、続けたくなるように仕向けたら良い。


二年間の作者の執筆時間を蔑ろにして、酷いくらいざっくり言ってしまえばそのような内容で、まんまと乗せられて朝は早く起き、夜になったら文章を書いている。

 

 

 

そう、実は文章を書いていなかった。小説用に、まとまりのない文章を思い出したように書き殴ったこともあったけれど、特に形になりもせず、データの名前すらつけないで散乱させていた。そのうち読み返しもせずに消すと思う。


同時期に仕事がどんどん忙しくなっていったのもあって、夜になると今日は疲れているからいいやと文章作成から離れ、それなのに近々新作が出るというゲームを二回もクリアしてみたり、懐かしのチャットサイトに入り浸って夜な夜な仕事の愚痴を吐いたりしていた。

 

そのことを悔やむほどには落ち込んでいなくて、ただ文章をまた書けるようになりたいなと、やはり二日前に思った。

 

習慣にするには、嫌だと思わないように、良いところばかり思い浮かべる。それが当たり前であるようになるまで。

 

ということで書いている。小説を書くのとは違う。小説を書くことと文章を書くことは、見た目は同じ作業だけど、多分まったく違うスキルだ。


小説は作品だから、形を整える。だから文章以外の時間や労力がかかる。ただ文章を書くことと、人に見せる文章を書くことの違いだ。


加えて、物語にするには何かがいる。テーマと呼んでも良いし、もっと単純に書きたいことと言い換えてもいい。形を変えて言えば自分がそれを書く理由だ。一朝一夕でできるものではなくて、忙しさを言い訳に尻込みしているうちに、疎遠になってしまっていた。

 

できそうだと見込んだ今を大事にして、書くことに慣れておきたいと思う。


キーボードの手触りや、液晶画面に連なる文字。その光景に慣れておけば、何かできるかもしれない。可能性だけでいい。何もできなくなるよりはずっといい。