雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

THE・雑記

最近は書評ばかり書いていたので、たまには別のことを書いてみたい。近況報告である。

 

詳細は省くが、先月の頭に引っ越しをした。

突然のことだったが、どうにか荷物をまとめて新居に移し、会社の方での手続きなどもこなしてバタバタしているうちに月が変わった。11月ももう中旬だ。

固定費がこれまでよりキツくなったので遊興費を減らさざるを得なくなった。本を買うのも一旦お預けして、やたらと溜めた積ん読本を消化している。

既読本は売り払ってきたのだが、まだ開いていないものはどうしても気が引けてしまった。とはいえ、時間には限りがあるし、ある程度見切りをつけたら捨てるつもりだ。

同人誌系はそのうち捨てるだろうなあ。

だいたい独り暮らしなのに溜め込みすぎているのが良くなかった。紙は実に重いので、次また引っ越すときの苦労を思うと、買い足すのも気が引ける。

とりあえず東京文フリまでは我慢しよう……あと二週間? またまたあ……

 

11月の文フリはもともと出ないつもりでいた。在庫本があらかた整理し終わったのと、次に出したいと思っている本(『火竜~』です)の推敲がまだ終わりそうになかったので、申し込みを見送った。ちょっと試したいことがあって、やっぱりどうしても期間がいる。

それに加えて、先に言ったとおり予算が圧迫されている。どう考えても増刷は無理だ。来年の5月にはどうにか出たいので今から溜めていかないと。

 

本は金が掛かる趣味だな、と金に困りだしてから気づく。

パソコンさえあれば書くことはできるけど、きちんとした形で発表するには金が掛かるし、もちろん買うのにも費用が掛かる。独り黙々と作れるほど打ち込めればいいのだが、どうしても交流活動に対する憧れは消せない(大した交流をしているわけでもないが……)やっぱり定期的にイベントは出たいなあ。年一回でいいから形にしておきたい。

 

なんでこんなに本を出したがっているのだろう。

 

大学四年生のときに初めて文学フリマを尋ねてみて、趣味で小説を書いて本にしている人たちがたくさんいることを知った。それまでネットでしか発表することのなかった僕はそれなりに衝撃を受けて真面目に書いてみたくなった。

今まで散々過去を振り返るタグなんかで書いてきたこのエピソードも、結局僕の衝動の正体を考えるとなかなか複雑だ。それは小説を好きだったからかもしれないし、単純に社会人になることから逃げたかったのかも知れない。碌な趣味も持たずに人生が過ぎ去っていくことに抵抗したかったのかもしれない。

どれかひとつには決められないな。

 

社会人一年目のときに、某投稿サイトで批評をしてもらって、もっと内面を曝け出せと叱咤されて結構感銘を受けた。内面ってなんだろうなって考えるようになったきっかけで、相手さんには感謝しているが、生憎名前は忘れてしまった。ツイッターでフォローしていた気もするが、やっぱりというか消えていたのでもう会うこともないだろう。どうであれ、見知らぬ人を批評してくれるのは良い人だと思いますよ。

それまではトリック重視というか、読んで面白い、入り組んだ話ばかり書いてきたのだが、このときから次第に人間の考え方に注目するようになった。

こう書くと意識高い感じに聞こえるが、実体としては、適当に書いているとなんか人間として不自然な気がして書き直したい衝動に駆られるようになった、というのが正しい。だからプロットを書いて、その時点での心の動きを必死に考えるようになった。そうしたいというよりは、そうしないと気持ち悪いからだ。おかげでどんどんぎこちない物語が量産されたように思われる。なろうに保存されているのはだいたいその頃の小説ですよ。

 

創作活動を続けているうちに綾月という創作サークルと出くわしたのだが、死体蹴りもいい加減にした方が良いので触れないでおこう。そのあと月と缶チューハイというサークルに入ってみて、こちらはびっくりするほど放任主義で、在籍して一年以上経過しても発表したのが一作だけだというのに許してもらえている。ありがたい話だ……いいの? 本当にいいの? 逆に心配になってくる。

若干戻るけど、綾月にいた頃に同じ所属者の人に絵を依頼して『from AI to U』という小説を書いた。こちらはカクヨムで全文公開してある。表紙を書いてくださった人は奥付に書いてあるのだが、その人は現在名前を変えているらしく、すでにフォローが外れている僕からは行方がわからない。多分作中の登場人物の女の子たちに対して、誰が一番おっぱい大きいんですかね? としつこく訊きまくったのが良くなかったんじゃないかなと思うのだが、実際のところはわからない。あまり触れない方がいいのだろう。そっとしておきたい。

いやあ、人と交流するのって本当に難しいことですね。

 

それから先は、ブーン系に顔を出したり、自分の連載ものをちまちま勧めたり、短編を細々とカクヨムに発表したりして過ごしてきた。ときおり批評めいたものをしてくれる人もいたのだが、なんかだいたいマウント取ってくる人だったので疲れて避けるようにした。

ふと気づいたら世の中はマウント取りで溢れていた。怒る方も疲れるんだ、なんて言葉もあるけれど、ことマウント取りについては一方的に捲し立てればいいだけなので、絶倫でいられるのだろう。

 

疲れが溜まっているうちに平成最後の夏が来た。イベントで在庫本を消化し、コミケでふらふらしたり、なんやかやと交流は続けていた。相変わらず他人に踏み込めなくて、何を書いたらいいのかもわかっていないような自分に嫌気が差し、ツイッターからもついに離れた。

何をしたかというと、昔の自分の作品を読み返した。面白かった。文章としては明らかに拙いし読みづれーなとは思ったのだが、なんか楽しんで書いている感じだ。

書きたいものがあって書いている、そんな感じだった。

何のことはない。テーマは最初からあった。難しく考えすぎただけだった。

 

というわけで、だ。

昨日から自作のミステリーをブーン系小説で発表している。

『さよなら、そしてまた会おう』

2013年頃に書いた、探偵モララーシリーズの続きだ(多分この名前で名乗ったことはなかったけどな)

久しぶりに楽しみながら書いた。テーマはあるといえばある。「彼ららしく動かしてみること」だ。楽しくかければそれでよかった。

 

すでに書き終えてはいるが、細かいところがまだ推敲仕切れていないので、もうちょっと詰めていきたい。長引いても、12月中には終わるだろう。

読みたいと思ったら前作、前々作を読む必要があるのでお気をつけて。ブーン系を知らなくてもいいんですよ。ブーン系小説という形で書いている、以上の意味はないですから。

【感想】新世界より(貴志祐介)

例によって積ん読消化。

「お、『新世界より』買ってたんだ~、読も~」

と上巻を手に取ったのが昨日の朝だった。

出かけている途中で中巻、下巻を購入し、読み終えたときには今日の日が暮れていた。

 

買った経緯については憶えていない。

何か長めの小説を読もうとした時期でもあったのか、上巻だけが転がっていた。

内容については、SFだということ以外はほとんど知らなかった。

貴志祐介といえば僕の中では『青の炎』の人なので、ミステリだったりホラーだったりSFだったり、何でも書く人なんだなと思ったくらいである。

 

昨日ちょっと調べたのだが、貴志祐介は大学在学中に小説を一編書き、未完に終わったのを、社会人をしながら書き上げてSFの賞に投稿し、佳作に選ばれた。

その作品こそが『新世界より』の原型である。海外のSFなどを参考にして作り上げられた、原稿用紙120枚足らずの作品だったらしい。

賞は得たものの、デビューするには至らなかった。

 

その後、生命保険会社を辞めた貴志祐介は、諸々の反省から、自らが体験した恐怖を元にホラー小説を仕上げ、当初の希望であった作家としてデビューを飾る。

そのときの恐怖の体験とは、具体的には、保険金を手に入れるために自らを傷つける行為だったとか、どこかのインタビューに書いてあった。

 

貴志祐介の作品をそこまで読んでいるわけではないので、この体験というのがどの程度他の作品に影響しているのかはわからない。

ただ、こと『新世界より』に関しては、この体験が下地にあることは十分納得できる話だと思う。

 

新世界より』は今から1,000年後の日本を舞台にした物語だ。町に暮らす人間たちは、みな呪力という念動力を持っており、物を自在に操ることができる。この力があることで、科学技術は不要となり、平和な生活を維持していた。

子どもたちの視点で描かれる未来の世界は、牧歌的でありながら、言いようのない不穏な空気を帯びる。

町を囲う結界、その外側にいるという悪鬼、業魔などの存在。人間に付き従う醜いバケネズミたち。極めつけは、学校のクラスから人知れずいなくなる同級生たち。しかもそのことに、主人公たちは一切疑問を抱かない。どういうわけか、記憶の底から抹消されてしまうのだ。

 

やがて主人公たちは、過去の世界の知識に触れることとなる。

この異様な世界(最も、異様であることは初めのうちは読者にしかわからない。そしてその事実こそがこの作品の肝となる)の謎に触れ、真実を求め始める。

 

設定は壮大でありながら、扱うテーマは人間の内面の闇に徹底している。もっと突き詰めれば、人間の底知れない悪意が随所に見え隠れしている。

社会体制や周りの環境、思想などによって、人は簡単に命を軽視できる。自分の命を賭して戦うことも、また相手を容赦なく抹殺することも、本質的には同じことだ。

呪力という、絶対的な力、他の生き物との違いによって、人は生物界の頂点に君臨している。堅牢な防衛機能を構築して、平和を作り上げている。

具体的には、人に危害を加えれば、自分の呪力が暴走して死に至るという愧死機構。そして徹底した性善説、人は人を裏切らないという教育が施されている。

しかし、物語を読み進めれば、その欠陥は自ずと浮き彫りとなってくる。

呪力を持つ者同士は絶対に殺し合うことができない。このことは翻せば、そうでない者はどんなことがあっても決して心を許せないことになる。裏切らないという保証がないからだ。

作中でいえば、バケネズミという生き物がその対象となる。

人に使役されるこの生物が、実は人を裏切るんじゃないかという疑念は、物語の最後の最後まで絡んでくる。

別に主人公たちが疑り深い性格というわけじゃない。彼らが人じゃないから、決して信じるわけにはいかないのだ。

逆に、同族である人に対しては、同じような疑念は浮かばない。僕はこちらの方がとても怖いことのように思えた。人は味方であり、それ以外は敵であるという刷り込みが、当然持つべき疑念を消してしまっている。

この構造はただのミスというよりは、やっぱり計算されているように思う。敵への同情を見せる主人公は多少なりまともに見えるのだが、やはりどこかしら、偏っている。

最後の最後、祈りのように書かれたメッセージがせめてもの救いだろう。

 

印象的なシーンは多い。そして、決して明るい話ではない。

人はどこまで残酷になれるのか、それを見せつけられる思いでした。

 

悪意の根底に迫る良作、時間を費やして良かったと思えるくらい満足でした。