雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

さよなら平成

 僕は平成3年12月18日の生まれであり、一週間後の25日、ソビエト連邦は最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、世界地図からその名を消した。

 僕はこのエピソードが気に入っていて、生まれ年の話になるといつもつい口にしてしまうのだけど、大抵はぽかんとされる。まあ、どうでもいいことなのかもしれない。僕自身、このことを知ったのは、ずっと後だ。

 ソ連という名前は先に歴史の授業の中でだけ見かけていて、もうずっと前になくなったものだと思っていた。そんな国が自分と一週間だけダブっていたということにわけもなく面白いと思って、受けないとわかっていても未だに口にしてしまう。

 

 平成という時代をほとんどなぞる形で僕は成長した。

 とはいえニュースにはあまり興味を抱いていなかった。

 阪神淡路大震災地下鉄サリン事件も当時のことは記憶になくて、あれだけ好きだったはずのドラえもんの作者が亡くなったことも憶えていない。

 記憶しているニュースとして最も古いのは平成13年の9.11だ。それ以降のニュースになると「ああ、あったね」と素直に頷けるけれど、それ以前のニュースはどうしても記録としてしか認識できない。

 

 小学校時代にはたくさんの玩具が溢れていた。

 ミニ四駆に始まり、ベイブレードやカードゲームが流行っては廃れ、また流行るのを繰り返していた。

 最後にはカードゲームが一段高い立場になって、やっている人は大学時代まで続けていた。

 

 ゲームは登場したそばから人気の高い玩具であって、特に任天堂が繰り出すパーティゲームはソフトを持っているだけで放課後の遊びのホストになることができた。

 これは主に僕が担当していた。

 多人数参加型のゲームを買えば、とりあえず人と遊ぶ口実になった。

 そんな隠しきれない下心で引っ込み思案な性格を隠してホストになり、まるで自分が中心人物であるかのような錯覚を得ることを喜びとしていた。

 もちろんそのような性癖を僕は誰にも言わなかったし、親からしてみたら他所の子たちばかりが良い思いをしているようにしか見えなかったわけで、そのうち僕はゲームをすることを禁止された。

 

 ゲームを禁止された僕が真っ先に恐れたのは流行に取り残されることだった。

 世間ではPS2やXboxが発売され、高水準のグラフィックのゲームに皆がのめり込んでいく中で、非デジタルの遊びはものの見事に駆逐されていった。

 唯一の脱出口は戦略性の幅が売りだったカードゲームだったけれど、まとまった単位でのパック(ブースターパックとかストラクチャーデッキとか呼ばれていたもの)についての知識もなく、カードはコンビニで一回5枚ずつで買うものだと思っていた僕は、戦略性も何もなく、何もせずにライフが削られていくので全く楽しめなかった。

 レアカードを集めるためのガチャガチャとして楽しんでいたように思う。

 

 カードゲームで主に流行っていたのは遊戯王だったけれど、五年生か六年生の頃に一瞬だけデュエルマスターズが流行った時期があった。

 その流行は一学期に突如として発生し、僕も慌ててデュエルマスターズのパックを買い求めた。

 夏休みに入って、明けて、学校に通い始めると、周りもみんなが持っているカードが遊戯王に戻っていた。

「もしかしてもうデュエマって流行ってないの?」とクラスメイトに質問すると白けた顔で頷かれ、僕は夏休みの間にせっせと買い集めたデュエルマスターズのカードを全て破いて捨てた。速くしろと心臓が急いて煩かった。

 あれからしばらく、カードゲームで遊んでいるクラスメイトを見かけるたびに手汗を感じるようになった。

 

 中学生に上がるとクラスの中がはっきりと真っ当な流行に乗る者とそれ以外とで二分されるようになった。

 それ以外グループは一括してオタクとされていたけれど、内情としては皆が皆、いわゆるオタクコンテンツとしてのアニメや漫画を好んでいたわけではない。

 メインカルチャーに浸かることがどうしてもできなかった者たちが寄り合い所を求めて集まっていた。僕は後者だった。言うまでもないと思うけれど。

 

 僕の家にはパソコンはあったけれど、置かれている場所が居間だった。アニメや音楽はやめた。逆に、音や映像さえ流れなければ視線を気にすることはなかった。

 折良く世間では「電車男」のブームが到来して、「2ちゃんねる掲示板が世に知られるようになった。

 僕は毎日のように掲示板に入り浸って、文字データとしてオタクコンテンツを摂取し、素人丸出しの、例えば会話の途中に無理矢理ジョジョネタを放り込んでみるとか、そんな雑なやり方で浪費していた。

 受けるときもあったけれど、大概は嫌がられた。どうでもよかった。

 どうせ匿名だし、自分の言葉で誰かが反応するのはそれだけで気分が良かった。

 相手が苛々を募らせて長文で怒り始めるとなお気持ちよかった。

 あの頃「荒らし」と呼ばれていた連中は、おそらくほぼ全員が僕と同じような人だったのだろう。

 

 中学生も終わりに差し掛かるころにアニメやライトノベルのブームが来て、普通の生活の中にその影響を垣間見るようになった。

 高校に入って何かの出し物で先輩方が「ハレハレユカイ」を踊っていて、中学校との価値観の違いに眩暈が起きた。

 虐げられている者しか享受できないコンテンツだったはずでは? 

 常識だったはずのこの価値観が、知らないうちに遠ざけられていた。

 メインカルチャーの話題を書き込んだら蜂の巣にされた2ちゃんねるで、平気でBUMP OF CHICKENRADWIMPSの話題を目にするようになり、mixiが流行りだしてからは皆が当たり前のように現実世界とは違う自分を、インターネット上に非匿名で書き残すようになった。

 

 価値観の変化への戸惑いが薄れないまま高校生が終わる頃にニコニコ動画に触れた。

 2ちゃんねるの中にだけ存在していたはずの、いかにもな、ニコニコ動画に触れている人以外には理解できない、理解しない人のことは平気で馬鹿にしていいという、巨大な内輪のやりとりが、映像を媒体にしてコメントとして繰り返されていた。

 匿名性はもちろん、コメントへのリプライすらも無碍にされていった。

 誰も返事を期待してない。返事を律儀に追うこともしない。

 コンテンツは違法に切り貼りされてネタとして消化されていき、ネタのためだけに存在するようなコンテンツさえも作られて放逐され玩具にされた。

 とまあ、今となっては言えるけれど当時は単純にその巨大な内輪に入っているのが楽しかった。

 そこにさえいれば仲間でいられた。

 夏休み明けに流行が終わっていたと気づいて悲しむこともない。

 毎日ニコ動にアクセスさえしていれば、それだけで流行を追うことができた。

 大学生になった僕は当たり前のようにニコ動の話をして、当たり前のようにニコ動の話ができる友人だけを選んでいき、話が通じる連中だけのぬるま湯に浸った。

 

 Twitterが始まってからは毎日どころか毎時間コンテンツを享受できた。

 タイムラインを眺めているだけで流行のコンテンツを知るようになり、見たこともないアニメの面白いつまらないポイントを抽出して馬鹿にすることができた。

 メールボックスは一切開かなくなりLINEでのやりとりが主になった。

 Facebookを企業が重視するという噂が流れてからは皆と同じように登録して意識高い系の活動を探して漁った。結局何もしなかったけど。

 

 SNSが当たり前になった頃に僕は社会人になった。

 Facebookは不活発、LINEも全く連絡が来なくなり、大学時代の裏アカウントを再利用した小説家「雲鳴遊乃実」名義のTwitterだけが辛うじて生き残っている。

 

 コンテンツを享受することは、前ほど苛烈ではなくなった。

 大学時代まで続いた一連のコンテンツ摂取活動は全てクラスメイトとの話題作りのためであって、本気で気に入って摂取していたものは、たぶん一割もなかった。

 

 巨大な内輪を拡大させ続けたニコ動で、まとめサイトの声あて動画を見て、鳥肌が立つくらい気持ち悪いと思ったことがあった。

 いや、声が気持ち悪いというわけではない。匿名で2ちゃんねるの人たちが垂れ流していた雑談を、勝手に自分達の玩具にしてしまう行為が、だ。

 そしてその気持ち悪さは、今までコンテンツを友達作りに利用していた自分にも当てはまるよな、と気づいたら歯止めが利かなくなってニコ動に居座るのをやめた。遊び方がわからなくなってしまったんだ。

 

 平成という時代を通して、たくさんの玩具を見てきた。

 それで遊んでいるときは仲間がいた気がして楽しかった。

 実際、2ちゃんねるもニコ動もなかったら僕の人生はもっとずっと沈んでいただろう。あったからこそ、大学時代も辛うじて話題を絞り出すことができた。

 それさえない大学生活はちょっと想像できない。

 もっと有意義な過ごし方ができたはず、というのは思い上がりだろう。

 自堕落に輪を掛けてだらけて、虚無感を弄んだまま田舎に引きこもっていただろう。

 

 先ほど辛うじて生き残っていると書いたTwitterで、僕は小説執筆をとおして、仕事以外のつきあいを続けている。

 小説を書くと言うこと自体、パソコンが一般に流通して印刷製本の手続きも簡素化されたからこそ成せるものであって、たとえばこれが昭和の時代だったら僕は趣味としてさえ活動し続けられなかったように思う。

 度々東京へ赴く動機さえも見つけられず、地元でも必要なものは買えるんだし生きていけるしお金勿体ないし、と言って引きこもることは簡単だ。

 それでも、やろうと思えばもっと別のことができそうな気がする。

 少なくとも可能性があるから、調べることができる。

 平成というのが良かったか悪かったのかと聞かれたら、この可能性を押し広げてくれたという一点において、十分良かったと言えるんじゃないだろうか。

 

 先ほどは少しネガティブなことばかり言ってしまったけれど、ニコ動出身のアーティストが活躍しているのを知ると無条件で嬉しい。

 裏表ラバーズが初めて嵌まったボカロ曲だった僕は、今月の初めに作者が亡くなったと聞いて、しばらく呆然とした。

 そうかと思えば先日は元やる夫系(アスキーアートに会話をさせて繋いでいく物語記述形式)出身者が松本清張賞を受賞したりして、これまた嬉しかった。

 嬉しかったり悲しかったり、感情が動いているのだから、それを虚無と言ってしまうのはやはりどこかズレている。

 

 僕は確かに平成を生きていた。

 何も得られなかったように見えるけれど、たぶん何かが残ってくれているのだろう。

 

 令和でも、様々なものを知って学んで、成長できることを願います。