雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

プロットについて

 物語の筋立てをお勉強する書物は数多くあるし、僕も一時期嵌まっていくらか仕入れたことはある。読めば読むほどのめり込むし、物語のトレーニング法と称して簡易なフローチャートを勧めてくるものもある。当然これもやってみた。百個くらい書いたが、パソコンが壊れたので全て消えた。大した内容ではなかったのが救いだ。

 さて、筋立ての方法をいくらか学んで創作に活かせるものがどれくらいいるのか、僕は知らない。少なくとも僕は、そっちの人ではなかった。時間の無駄とまではいわない(実際小説なり映画なりのストーリーを小分けにして吟味にしてみると面白い発見に遭遇するので、一定の評価はしたい)が、物語を作る上でこの筋立てのとおりにしたいと思っても、なかなか上手くは実行できない。

 筋立ての方法、物語のパターン。それらは既存の作品を分析して成り立っている。裏を返せば、これから自分で組み立てる作品の構造は、よほど強固なイメージを持っている人でない限り、執筆前に想像することすら難しい。

 結果として出来上がった作品を分析してみて、前例を想起することはありうる。だがその作品の影響を意識して書いたのか、それとも書きながら自然と影響を表出したのかは、書いている人にもはっきりとはわからないと思う。

 物語を物語らしくするものに、構造なんていう物々しい言葉は要らない。序破急も起承転結も三幕・五幕・六幕構成も神話のプロセスも二項対立もカタルシスも物語が出来てからの話なので書くときは考えなくて良い。それよりも、物語の初めと最後で何が変わるか、明らかになるかを想像していた方が実用的だろう。外面的変化の一切起こらない作品が多数あることも知ってはいるが、別にこの世の作品を普く包括したいわけじゃないので余所に置く。

 プロットを組みはする。一応の道しるべだ。ルート変更はあり得る。その際にメモでも拵えれば几帳面なのだけど、生憎なかなか上手く活用できていない。お陰で何日も悩んだりする。きっといい解決方法はあるはずだけどなかなか見いだせないでいる。

 ルート変更はほぼ毎回起こっている。プロット段階ではどうも、表面的には成り立っているようでも、実際に書き始めたら目の当たりにする違和感に気づけない。たいていは内面に関することで、ここでその選択をするのはおかしいだろ! と自分の筋書きに突っ込んだりする。まだまだ人間が書けない証拠だ。書き始めないと、直すことにも思い当たらない。

 そんな段階の僕が言うのも頼りないが、プロットを書くうえでは、先ほども述べたように変化を意識している。目に見える変化が起こるところまではひとつのピースだ。ピースとピースを矢印で繋いで、ひとつのシーンを作る。そのシーンがいくつかくっついて物語としている。その変化に付随する感情まで表せたら都合がいい。そう思いつつ、今のところは毎回失敗している。

描写について

 前の文章にあったあの描写の意味は、実はこういうことだったんだ。

 この種の感想を抱かせる物語上の工夫には、布石や伏線などといった名前が与えられる。

 綺麗に伏線を回収していくことは憧れであるし、何らかの工夫が上手くいってほしいものだと願う心境は自然な感情だと思う。

 ところで伏線が回収される物語が面白いかというと、実はそうとは言い切れない。その伏線があること、読者に驚きをもたらすことが、作中にとって何らかの意味を持たなかった場合、工夫に気づいてもらえないか、気づいたとしても白けてしまう。感動とは結びつかない。

 小説を書き始めた頃の僕は伏線を練ることに執着した。

 前の描写が後の描写に繋がるように、物語の要素を逐一炙り出して繋げていき、振り返る形で物語を描いていった。

 その頃の作品に対しても、面白かった等の感想はいただけていたので、無碍に否定はしたくない。労力はかかるが、それなりに見られる作品が出来ていたと思いたい。

 社会人になったばかりの頃、つまりは僕が小説を真面目に書こうと思ったばかりの頃、当時隆盛だった投稿サイトにて厳しめのレビューをもらえる機会があった。早速思いついた短編を即席で練り上げ、提出した。様々なことを書かれる中、最も多く目にしたのが、読んだ後に言うことがない、という言葉だった。一人だけならば無視したかもしれないが、三人はいたので無視できない。そのまま、無味乾燥という意味だ。

 正直なところ想定外というか、言われてみればわかるが気にしたことがなかった。どういう理由があってその描写をするのか。どういう世界を描きたいのかとか、伝えたいメッセージはなにかとか、様々な問題に発展しうるその問いかけをレビュワーの方々はしてくださったのだと思う。

 自分はどうしてその描写をするのか。

 未だに答えが得られているわけではない。即答できるものでもない。数を熟さなければ見えてこないように思われた。だからその年、僕は短編を書き上げることを続けた。即興小説を何十本か書いてみて、あちこちの投稿サイトに投げた。一年もすれば情勢は様変わりしていて、僕がレビューをいただいたサイトはすっかり人がいなくなっていた。新興のサイトも生まれ、飛びつきもしたが、今のところは小説家になろうに落ち着いている。アーカイブとして最も信頼できるサイトだと思っている。

 即興小説を最近は書いていない。前述した年にそれなりに書いて思ったことだが、即興小説を連続して書くと同じような発想が繰り返されることが多かった。そうじゃない人もいるのだろうが、僕の場合は明らかに自分の中にパターンを作り出そうとする心境があった。配役を決めて、トリックを敷く。これでは伏線ばかりに執着していたころと同じだ。何を言われたわけでもなく、ただ単に自分が信じられなかったので、筆を一旦置いた。

 書き上げた短編のうち、人に見せても良さそうな作品をピックアップして紙の本として頒布した。30部刷り、二年かけて完売した。次の短編集をいつか出したいと思いつつ、まだ書き出せていない。

 今にして思えば、何を書くべきか、という問いに拘りすぎていた。意味を持たせるべきだとは悟ったが、その意味を狙って書いても無粋だし、なにより作業間が増す。何らかのストーリーを描く際に、各々の描写が外連味をもたらしてくれる。それが一番の理想なんじゃないかと思う。

 例えば作中である人物の心境を描くとする。ある場面では勇猛果敢だったのに、ある場面では引っ込み思案になっている。その二つだけを引き合いに出せば矛盾しているわけだけど、何らかの事情を挿入することで引っ込み思案になった理由があれば理解が出来る。さらにいえば、勇猛果敢としてキャラクタライズするのではなく、心の機微を描くことで、相反する両感情を同時に抱かせることもできる。もちろん今これは架空のキャラクタを想定しているので、パッと例が思い浮かばないけれど、言いたいことは、描写とは小説について読者への説得力に資するということだ。

 碌な描写がされていないようならば、作中の大部分を読者に想像させるほかなくなってしまう。それでも味が出せる天才はいる。できないと肌で感じている僕なんかは、いろいろと書いた方が良い。意味のある描写、もっと詳しく書けば、小説として、世界観を構築する上で邪魔にならない描写を積み重ねた方が良い。

 描写のバランスは本当に難しくて、書きすぎればくどくなるし、薄すぎれば味がしなくなる。明らかに合っていない描写をついつい書いてしまうこともある。手遊びに書いたときに上手くいくかは半々だ。できることといえば、なるべく早めに書き上げて、推敲しているときに匂いを察知できるようにすることだと今のところは思っている。