雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

3.11

僕が小学四年生のとき、9.11同時多発テロ事件が起きた。「これは大きな事件なんだ」という意識を持った、初めてのニュースだった。

 

崩れるビルを映していたカメラマンが、近隣住民に腕を引かれ、ビルの中に入る。

外は危ない、吹き飛んでくる瓦礫で怪我をする。

そんな怒鳴り声が字幕付きで入り込んでいた。

 

これより6年前の阪神淡路大震災のことは、僕は憶えていない。

さすがに幼稚園児の頃にニュースは見ていなかったし、理解もしていなかったのだろう。

実際に阪神淡路大震災を知ったのは社会科の授業だったと思う。

ニュース番組を見る習慣はなかったし、新聞も読んでいなかった。

インターネットもろくに整っていなかった。

授業以外に、社会に触れるような時間はなかったはずだ。

 

3.11東日本大震災のとき、僕は実家のある埼玉県の北部にいた。

当時は東京の大学に通っていて、その日は何かの調べ物で行くかどうか迷い、明日でいいかと思い直して、再放送の金八先生を眺めていた。

地震だね」などと家族で言い合っていたのが、揺れが大きくなるにつれて口数が少なくなっていった。

やがてずしんと響くような揺れに見舞われて、慌てて家の外に出た。特に意味は無かった。戻ると招き猫が落ちて割れていた。

再放送はニュースに切り替わり、そのまま夜通しの実況が続けられた。

 

 

SNSでは虚実入り交じった情報が飛び交い、ニュース番組の報道内容も二転三転していた。

原発内部構造のモデル図が見る度に形を変えていったのをよく憶えている。

自主規制で企業がCMを取り下げて、ACの同じCMばかりが何度も流れる事態になった。

ようやく番組が始まっても、全て地震関連情報だった。

ニュース番組に疲れたら、インターネットで地震関連動画を疲れるまで見ていた。

調べ物でも、追悼からでもない。

何でだろうと言われると難しいけれど、見ておきたくなった。

 

地震があった日の夜、知り合いから電話が掛かってきた。

身を案じる電話をあちこちに掛けていたようで、二言三言、何か話したように思う。

計画停電が始まると近所にいた知り合いからも連絡が来た。

そっち電気止まった? とか、そんな内容で、やはりいくらか会話をした。

まだかろうじて繋がりがあった頃の話だ。

今はもうみんな遠くにいるだろうし、どこにいるかもわからない。

心配して声を掛けてくれる知り合いがいた最後の時期だったような気がする。

 

僕の知り合いに被災者はいなかった。

知り合いの知り合いとなるといたようだが、深刻な話は聞かなかった。

度々来る余震で電車が止まったり、計画停電で右往左往したりもあったが、周囲では落ちついたものだった。

その代わり、SNSでのデマの飛び交いようは凄まじかった。

人がいなくなって共食いを始めた猫の画像とか、放射能の影響で奇形になった魚とか、そんなものを良く目にした。

原発関連は調べるごとに新しい情報や反論が飛び交っていてついていけなくなった。

氾濫する情報を精査するのも億劫になり、やがて調べるのをやめた。

繰り返すけれど被災者の知り合いはいなかった。だから被災地は遠い場所だった。

 

震災復興ボランティアが始まり、親に相談してみたら、かなりの勢いで反対された。

危険だからの一点張りで、僕は、そんなものかと考えを引っ込めた。

ただ就活に備えての経歴造りでボランティアに目が行っただけだったので、こだわりもその程度だった。

 

 

東日本大震災のあとで、大勢の作家が震災後の文学を書こうとし、実行した。

真っ正面から震災の影響を描いたものもあれば、ストーリー進行上に震災を絡めた作品もあった。

言葉は無力だと言う人もいれば、今こそ言葉をと言い張る人もいた。

思うところは人それぞれなのだろう。

 

東北を未だに汚染された土地だと思っている人はいる。

SNSを、それも限定されたフォロワーの発言やRTだけを見ていると、僕の場合はまるで物わかりのいい人で世界が満ちているようにも見えてくるけれど、

ひとたび現実の職場などを眺めて見れば、まだまだ偏見が強く残っていることを実感する。

そのような偏見を言葉で打破できるかというと、とても難しいことのように思える。

そもそも言葉で相手を変えようとすること自体が難しい。

ほとんど不可能と言っても良い。

 

安全ですといくら言い張ったところで、怪しむ人は大勢いる。

全ての人を同じ考えに統一させるのは難しい。

だから言葉は無力、といいたくなる気持ちもわかる。

 

たとえば、僕は、東日本大震災のことを憶えている。

だけど僕が9.11以前に無関心だったように、この震災にさえ無関心な人はいる。

ニュースに興味がないのかもしれないし、知っていても、あまりにも遠く感じられるからかもしれない。

 

そんな人を前にして、震災の怖さを語ることは難しい。

年を経るにつれて、当時の状況を忘れる人も増えるだろう。

あとから調べようにも、デマや憶測が飛び交いすぎていて、相当なエネルギーが必要になる。

エネルギーの消費は疲労のもとだ。

そして、体力がつくわけでもないのに、自分からくたくたになりに行く奴はいない。

 

言葉で人は変わらない。

もっといえば、すぐには変わらない。

言い続けて、それで変わるという保証にはならないけれど、

ふとした瞬間に考えを改めることはありうる。

 

何年後か、何十年後、何百年後かわからないけれど

当時を知る人が誰もいなくなって、それでも東日本大震災が語り継がれていたら

巡り巡って誰かの命が救われるかも知れない。

誰かが悲しむのを防ぐことができるかもしれない。

 

言葉だけで人は変えられないし、デマも過ちも消すことはできない。

誤解は争いを招いて終わらないかもしれない。

それでも言葉を止めるわけにはいかない。

何も言わないということは、何もなかったということにするのと同じであって、

調べる手立てもなくなれば、もはや何も学べない。

 

東日本大震災から8年が経った。

僕は就活を終えて社会人になり、隙間時間で小説を書く人になっている。

東北にはまだ行けていないけれど、そこが決して危険な場所ではないということは知っている。

それは言葉が僕の耳に届いたからであり、その言葉を信じて良いと僕が思っているからだ。

面白半分に疑うことに、茶化すことに、顔を引き攣らせて嫌悪する自分がいるからだ。

 

縁の無い土地ではありますが、これからも、憶えています。

 

以上。

 

黙祷。

取り留め

文章を書いているときに、何を書いているんだろう、って思う。

自分の書いた文章を眺めていても、どこに自分らしさがあるのかはわからない。

それでも書いているときは書きやすいときと書きにくいときがある。これもまたどうしてなのかわからない。

書きやすいなあと思っているところをあとで読み返すと、どうして自分の中からこんな文章が出てきたんだろうって思うことがある。残すこともあるし、消してしまうこともある。どれだけ読みやすくても、お話の筋と合わなければ消してしまうのだ。

 

話の筋といえば、自分はおそらく綺麗にまとまるお話が好きだ。

最後の最後に登場人物が報われるようなお話を好んでいるし、自分でも書きたいと思っている。

そしてやってみればこれがとても難しいとわかる。

登場人物の目標を設定して、報われる話として逆算していくと、浮かんでくるのは最短ルートなわけで、強引に繋いだそのルートは大した起伏もなかったりする。お話のために面白いところをどんどん削って切り開いていくようなものだ。

そのようなわけで、書きたいお話を書こうとすると破綻する。モチベーションが下がる。完成を前に筆を折る。言い方は様々だが現象は同じ事だ。このままでいいのだろうかという自制心が働く。

 

考えてみれば、話の筋をおって書きたい文章を制約するということは、自分の想定どおりにしか書けないわけなので、これは最初から相当練り込んでおかないと破綻する。

自分の求める物語を書こうとして、自分らしさが消えているのは本末転倒なので、他のところの自分らしさを見つけて書きたい。

そんな願いから自分の文章を見つめ直す。

得られる結論は最初のとおりだ。一文を抜き出しただけではよくわからず、面白いと思ったところは、どうして自分がそれを書けたのかわからない代物だったりする。

というわけで、自分はいったい何を書いているのかわからない、ということになる。

 

この点、上手い人は自分が何を書いているのかについて自覚的なのだろうか。

そこを基準として巧拙をおくべきなのかはとりあえず置いておいて、自覚的の方が書きやすい気がする。

困ったときは自分らしい文章を。なんだか甘言だ。そんな文章を狙って書けたら苦労はしない。

何かを書いているときに、たとえば情景描写から入るのか、人物の心情を描くのか、といった選択肢があるだろう。

そのうちのどちらかを選ぶのか。情景にしても、空なのか街なのか教室や職場なのか。心情にしても行動に表れるのか内面を掘り下げるのか抽象的か追憶的かでだいぶ変わってくる。

何を選んで書くのかが個性だというならば、知らなければ書けないし、念頭に置かないと浮かんでこない。

たとえいくら調べたところで、書いている自分は変わらない。興味のない事柄はどうしたって深くは書けない。

 

だからたぶん、僕の作品を読んで僕らしさがあると感じられるならば、そこには僕の知覚したことが描写されているのだろう。

意識的か、無意識的かは関係なく、読者は僕の描写のうち、重要そうなものを憶えてくれる。

重要そうって抽象的に言ったけれど、話の筋的に重要とか、それとも作者の心境を知る上で重要とか、物語の転機、内面の表出、いろんなものがあてはまるように思う。

 

気がついたら染み出している僕の個性。

そんなのがあったら楽で良いなと思う。

自分でそれが書けているかはわからない。

わからなくても、何かあるんだろうくらいの気持ちでないと続かない。

多分、個性を身につけたいの一点で身を粉にして書いているとしんどい。

目標達成を自分で判断する術がないからだ。

 

話は変わるけれど、書店へ行って漫画でも買おうかなとするとめちゃくちゃ迷う。びっくりするくらい迷って大抵結局1冊も買わない。

現実とは違う世界にいってあれこれするようなものには食指が動かなくなってしまった。

もちろん読み始めたら面白いんだろうと思うんだけど、その面白いというところに入り込むまでが難しい。

たとえ一度セッションが繋がっても、続かなかったら積ん読になってしまう。

なんで漫画なのかというと、僕の中では漫画はキャラクタを魅せるものだと思っていて、

そのキャラクタについて、僕自身があまり興味を持っていないように感じる。

どんな人物なのかってところよりも、普通の人がどんなことを起こすかというのを見てみたくなる。

話の筋書きの方が興味があるということなので小説の方が入り込みやすい。

もちろん無理なものもあるけれど、文字という形で抽象化されている方が親身に感じられる。

 

全然知らないことに手を出してみたくなるモチベーションのときもある。

そういうときは別の世界のお話でもついていける。

逆に、現実をみすげて疲れたなってときは、そういう別の世界の話をみてみてもいいのかもしれない。

今のところそのモチベーションが浮かんでいないだけだ。

 

話の筋を考えるのが好き、そして綺麗にまとめられるとなお良い。

さりとて綺麗にまとめるのは難しくて、まとめるために物語を紡ぐのは失敗の元。

物語を自分らしい文章で固められたら楽だけど、そんな文章には未だにピンとは来ていない。

楽は出来ないので物語を書くしかない、綺麗にまとめるのが難しくても、まとめないといけない。

取り留めもないことは今日のようなエッセイで十分だ。

長々書いたけど近道はなかった。明日から小説がまた書けると良いな。そんなことを考えている。