第27回文学フリマ東京に参加しません。
2018年11月25日(日)に行われる第27回文学フリマ東京に参加しないという決定をした。
肩の荷が下りた心地がした。
最近、自分の作品を全て読み返した。
自分の作品を宣伝する上で、ジャンルわけでもしてみるか、と思い立って始めたものだ。
ブログにリンクを貼った作品群だけにしても、一週間は読み続けた。
残したいと思った作品は十に満たなかった。
それぞれの作品を褒めてくださった方がいることも覚えている。
書いた側なので、感想はもちろん漁るし、嬉しかった。その気持ちは忘れない。
ただ、どうしても残す気になれない作品が多かった。
理由は様々だ。
単純にクオリティの問題もあるし、今の自分のスタンスとはかけ離れていて触れにくいものもある。
一般文芸を初めて初期の作品は、アイデア一本で即興小説風に書いていたせいか、とりわけその傾向が強い。
何が言いたいのかわからない。
残したいと思えなかった理由の中で、これが一番多いものだった。
言いたいこととはテーマと言い換えてもいいと思う。
どうしてテーマのない作品を書き続けたのか。
単純に稚拙だったから、と言い切ることもできる。
もうひとつ挙げるとするならば、発表することそのものが目的だったから、とも言えるだろう。
発表すること。つまり創作者である自分をアピールすることだ。
当時の僕はオンラインで作品を発表する人だったので、書いて投稿サイトにアップしたり、掲示板に投げかけるのが常の活動だった。
書かないと、まず存在意義が見いだせなかった。
不純な動機なので、書きたいことはすぐになくなる。
何かを書こうという確固たる意志はほとんどなかった。
書くことを目的としたい僕は、必然的に書く理由を探すことになった。
一番手っ取り早いのは動機付けだ。
時間制限を設けたり、お題を設定したり、ツイッターのフォロワーをイメージしたり。
どれもこれも、作品を生み出す動機を作りたかったにすぎない。
何度もいうけれど、それらの行動で生み出された作品を否定したいわけじゃない。
中には今でも面白い作品はあった。それは少なからず救いでもあった。
そしてその救いを覆い隠すほど、今の自分に響かない作品が多くて疲れてしまった。
どちらかといえばイベントに参加することそのものはいつでも推奨している。
自分の創作を人に見てもらえる機会は重要だし、大切にするべきだ。
実際に足を運ぶものでも、オンライン上でも、そういった活動で人と交流することは有効だと切に感じている。
端的にモチベーションが上がるという効果もある。だいたい僕が作品を書きたくなるのも、そういったイベントに参加したときか、直後であることが多い。
しかし、イベントに参加したという情報は、その当事者にしか響かない。
当時のことなど知るよしもない、未来の読者にしてみれば、どんな歴史的イベントに参加したのか、どのような厳しい縛りで書いたのか、そういったものはただの情報以上の意味を持たない。知ったこっちゃないのだ。
僕の作品はイベントによったものが多かった。
それ以上の意味をなさなかった。
だから、読み返すのがつらいことが多々あるのだろう。
イベント参加そのものを目的とすることは、少し怖いことだ。
イベントにもそれぞれテーマがある。これはオンラインでも、オフラインでも同じことだ。
単一テーマのイベントならわかりやすいし、そうでないところでも、各イベントに自分なりの意味を見出しているのといないのとでは、状況は変わってくる。
自分の伝えたいことと、イベントのテーマが合致しているときが一番健全だ。
そのイベントで自分の作品を並べることの意味は常々問い掛けた方が良い。
自分の創作は大事にして惜しいことはない。
これは何も、自分の批評をすべてブロックするだとか、そういう過保護なことを言いたいわけじゃない。
自分が何を書いているのかを意識した方がいいということだ。
誰よりも、あとから読み返したときに自分への説明がつかないのは悲惨だと思うのだ。
ここからは自分のことだ。
僕のことを打ち明ければイベントに出るのは「僕の作品を知ってもらいたいから」だ。
だからそれがそのまま僕の伝えたいことであり、僕のイベントに参加するテーマということになる。
自分のことを知ってもらいたいのに自分のことを見失っているのでは全く以て意味がない。
十全な作品を用意できない今の状態で参加するのは、その目的に適わないので、参加しないことにした。
まあ、正直なところを言えば金欠が一番の理由だし、一般参加者としては普通にいきます。
来年の五月の文フリがありうるなら出店者として参加したいね。
それよりも先にコミティアへの参加があるかもしれない。
いずれにしろ半年以上先のことで、簡単に断定することができないけれど。
文フリ東京に参加される方々の健闘をお祈りします。
【感想】狭い世界のアイデンティティー
何の気なしに見始めた『ハイスコアガール』のアニメから、作者の押切蓮介に興味を抱き、月刊モーニング・ツーで連載中の『狭い世界のアイデンティティー』を購入した。
本当は学生の頃に『ミスミソウ』を読んだので初遭遇ではないものの、僕の頭の中では何故か作者が押見修造ということになっていたので、今更ながらググって混乱した。絵やテーマからして全然違うのになんでだろうね。
さて、『狭い世界のアイデンティティー』。腐りきった漫画業界の中でのし上がるために、暴の力で邁進する新人漫画家及びその周辺の物語。
バイオレンス漫画ということで何もかもが暴力的になっている。それはそれでバトル漫画みたいで面白いのだけど、本当の敵は承認欲求。創作者ならば誰もが望む、自分のアイデンティティーを確立するための根拠のようなものを探し求めて争い合う。
特に目立つのがツイッターの活用・悪用の数々。
承認欲求を満たすためのあの手この手を駆使する人間模様は地獄絵図そのもので、それでも共感せずにはいられないのがおそろしい。
ツイッターが日本で異様に流行るのも、肥大化した承認欲求が増幅させているのだろう。
いいねの数こそ心の潤滑剤! バズらせ音頭を踊るに踊る!
のし上がれるのはほんの一握り。売れる本を作りたい出版社と、売れることで自己を世界にアピールしたい創作者のせめぎ合い。暴力はないにしろ、似たような妬み嫉みの世界はあるんだろうなと察する。そしてまた、どこまで作品が世に出されても同じ苦しみがついて回るのだと思うとゾッとする。
逆に暴力で全て解決したらどれだけ楽なんだろう。えぐいのだけどスカッとするのはそういうわけなのだ。
あと別のことだけど、押切連介の友人、清野とおるの『東京都北区赤羽』のドラマを今年の頭頃に観たのはタイミングが良かったのかも知れないね。
狭い世界のアイデンティティー(1) (モーニングコミックス)
- 作者: 押切蓮介
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/04/21
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (2件) を見る
連載中の作品の感想を書くのはめったにないことなので僕の承認欲求も満たして欲しいです(終わらない苦しみ