雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

【感想文】命を賭して戦うということ――『聖の青春』(映画)

なんとなくまだ胸の内がざわついていた。不調というか、不安定というか、このまま仕事の日を迎えるのも憂鬱。気を落ち着けようと東京へ向かった。

 目的は往路で考えた。

 電車に揺られながら映画を調べて、『この世界の片隅に』と『聖の青春』で迷って、結局後者にした。

 

 映画の内容は事前に知っていた。

 二十九歳で夭折した天才棋士村山聖松山ケンイチ)。羽生善治東出昌大)との対局を軸に、彼の最後の数年間の生き様を描く。死を宣告された男が、文字通り命を賭して、戦いに身を投じる。

 決して明るい物語ではない。死にゆく上での覚悟等が主題だろう。そう予想して、下降気味のテンションを張り詰めさせてくれないかな、なんて曖昧な期待を寄せた。

 上映時間を見誤って翻弄され、最終的にはお昼前の銀座での視聴となった。

 

 結果として三回泣いた。以下、ネタバレは気にせず書き進める。

 

 一度目は村山聖が弟子、江川(染谷翔太)に激昂するシーン。戦いに負けて将棋を諦め、第二の人生を歩もうとする江川に対し、村山は「死ぬ気」のないことを喝破する。江川が好青年として描かれているだけに、キツい口調で責められる姿は胸が痛いし、あまり感情的なタイプではなさそうな江川が怒りのボルテージを高めていく様ははっきりと感じ取れた(それはそれで目を見張る演技だったと思う。緊張感が溢れていた)。

 対して、村山の「死ぬ気」は文字通りだ。病気のために死がすぐ傍まで待ち受けている村山にとって、将棋以外に生きる術はない。生きるために指しているのであり、第二の人生など考える隙間もない。江川に対する酷い言葉の羅列は、将棋に対する強すぎる思いの裏返しだ。負けた者は生き残れない。そこで死ぬ。江川に言い聞かせる言葉はまさに村山自身が自分に言い聞かせていることだったのだろう。

 痛々しくて、それでも目が離せなかった。死ぬ気で頑張ったことがどれだけ自分にあっただろう。そんなことを頭の片隅で思って、何も思い浮かばなかった。

 

 二度目は村山と羽生が居酒屋で夢を語り合うシーン。窓の奥で降る雪のスローな動きも相まって、二人が並び座っている姿は浮き世離れして見えた。終着点の見えない夢を楽しげに語らう二人。村山には死が待ち受けているけれど、羽生にとっても、将棋がこれから先の人生から離れることはない、という点では村山と同じだったのだろう。

 将棋の魅力に取り憑かれた時点で二人は同類だ。そして村山にとって、その瞬間こそが最も大切な記憶となる。羽生と並んだ記憶が彼の生きるエンジンとなり、同時に羽生に遅れを取るまいとする想いが彼の病気を悪化させた。彼の夢は活力であるとともに呪縛でもあった。

 悲しい、と偏に断ずるのは良くないだろう。とにかくそれは喉が熱くなるほどの美しいシーンだった。

 

 三度目は最後の対局。こればっかりは、この緊張感だけは、見てもらわないと伝えきれない。

 後で調べたことだけど、この対局については松山ケンイチ東出昌大がお互いに村上聖と羽生善治棋譜を頭にたたき込んで長回しで撮影を行ったそうですね。その意気込みに値する名シーンだったと思います。

 

 あと良かったと思ったのは、村山聖の生活感が出ているところ。気性が荒かったり、将棋以外のことは怠惰だったりと、村山の人間臭い一面がしっかりと映されていた。死を前にして聖人のように清らかになるのではなくて、戦う人として臨む姿。すぐ傍にも居そうにも思える。だけどきっと、滅多に出会えないタイプの人だ。

 

 総じて力強い映画だった。見て良かった、と今なら言える。死ぬ気で、とはなかなかできないにしても、もうちょっといろいろ頑張りたい。そう思いながら、映画館を出て早速吉野屋へと駆け込んだ。カルビ丼に玉子と豚汁、美味しかったです。

夜だから独り言。

 僕が中学生の頃、親からゲーム禁止令を言い渡された。ゲームの購入もプレイも禁止。当時持っていたニンテンドー64ゲームキューブプレイステーションのソフトは全て親戚に預けられ、帰ってくることはなかった。携帯ゲーム機は何故か家に置いてあった。だから親の目を盗んでちょっと古めのゲームを遊んではいたが、そのうち電池が壊れてどうしようもなくなった。

 禁止の理由は「視力の低下」だと親は言い張っていた。実際視力はどんどん落ちていたし、ゲームは目に悪いというのが当時の常識だったものだから、僕にはどうにも言い返せなかった。言葉ではどうにもならなかったので、僕はベッドで夜通し泣き叫ぶことで抵抗の意思を表明した。「うるさい」と何度か怒鳴られて声は弱めたが、泣くこと自体はやめてはいけないと自分に言い聞かせ、必死で声をからした。

 当時、僕には目立った趣味もなく、特技もなく、ゲームをすることだけが楽しみだった。ゲームさえ持っていれば友達を呼ぶ口実になった。喩え興味のないジャンルや苦手なジャンル、よく知らない作品の続き物であっても、流行っていればとりあえず手を出して家に置いた。「そのゲーム、うちにもあるよ」と学校のクラスで伝えて「友達」を家に呼ぶ。

 当時の僕にとってみればそれは必死に友達を僕と関わらせる営みであって、親に邪魔されるのが苦痛だった。

 それがどんなに歪んだ観念で営まれる無意味で不気味な行為だったか、それを毎日のように見せられる親がどんな気分になっていたかまでは、僕は考えが及んでいなかった。そんな余裕もなかったのだろう。痛ましく思うが、やはりはっ倒したくなる。

 どうにかして「友達」を作りたかった。「友達」ができなければ人生は終わり。なぜなら「友達」でない人はいつでも僕を攻撃しうるから。当時の僕は本気でそんな心配を続けて、不器用な人付き合いを繰り返していた。

 いったい他者からどう見えていたのか。いじめみたいな大それたことは何もされなかったのに、未だにときどきフラッシュバックする。何とかして普通の人であろうとしている自分を、他者として見つめるという妄想。醜悪さに目を閉じたくなるけれど、胸の内から沸いてくる不快感はなかなか消えてくれない。見える見えないの問題じゃなく、自分の行いそのものは過去の事実なのだから、違っていると否定することができない。ただじっと無表情になって、痛みの波が引くのを待つしかない。

 

 人付き合いが苦手であることは結局変わらなかった。不器用な付き合い方はさすがに不味いと思って、無理矢理人の気を引くような真似も抑えるようにした。距離を置くこと。無理矢理人付き合いするくらいなら逃げること。高校時代は、内面的にはダメダメだったけれど、勉強という言い訳があったから逃げられた。大学生になってからも、少しいびつではあったけれど、勉強していればおかしくは見られなかった。

 学生の身分でいるうちは、他人と距離を置きっぱなしでも構わなかった。近づきたくないなと思ったら無表情で突っぱねることができた。いろいろな面が許されていて、そういう人もいるよね、で収められていたと思う。

 社会に出たらそれができなくなった。というか、してしまったときに被る不利益が半端じゃなくなった。苦手な人を単純に嫌うばかりだと信用も失うし効率も下がるし何よりも精神的に圧迫される。ド正論でぶん殴られることもある。人と交流するというのは人間の一側面という単純なものではなく、圧倒的な正義の側。できないものは落伍者だ。

 耐えようと思って、無表情を貫こうとしても、どうしても臨界点がある。身に染みると涙腺が緩む。どうにかできない自分がもどかしい。

 

 何がどうしてどうなっているのかわからないまま、とりあえず他人に傷つけられないように生きている。そのためには他人を傷つけないことが絶対条件で、気を遣いすぎていたら他人に自然に近づけなくなった。別に下心があるわけでもないのに、他人に近づく行為そのものが今は畏れ多く感じる。何が普通なのかわからない。何となくおかしいのはわかるけれど、そのおかしさを取り除く術がわからないまま恥じ入ってしまう。

 変わりたいと思えるときに変わった先のヴィジョンが見えているかどうか。僕は全く見えていない。先ほどから普通と言っているのは概念としての「普通」であって、明確にこうすれば普通、というものではない。

 普通の人なんていない、だとか、みんなそれぞれ苦しんでいる、だとか、そういう言葉はもちろん知っている。事実だとも思う。ド正論だ。だけどそれとこれとは別の話だ。「普通」になりたいと言っている人にそれは違うと首を振られても、それでも僕は「普通」になりたい。

 これでも「普通」という言葉の使い方に違和感があるならば、きっと僕の「普通」の概念は歪んでいるのだろう。だとすれば僕が求めている「普通」というものはまた別の言葉で置き換えられなければならない。そうしない限り答えはでない。でるわけがない。問題提起が間違っているならば考えていても仕方がない。

 いったい何が間違っているのか。どこから間違ってしまったのか。わからないまま、今年がまた終わろうとしている。これから先、無事に生きていられるのかもわからない。自信をつけろとは思うのだが、そもそも自分には自信がないのだろうか。何かがない。その何かがわからない。そうしてまた無表情となり、平気なフリしてストレスを抱え込む。終わらないなあ。