雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

夜だから独り言。

 僕が中学生の頃、親からゲーム禁止令を言い渡された。ゲームの購入もプレイも禁止。当時持っていたニンテンドー64ゲームキューブプレイステーションのソフトは全て親戚に預けられ、帰ってくることはなかった。携帯ゲーム機は何故か家に置いてあった。だから親の目を盗んでちょっと古めのゲームを遊んではいたが、そのうち電池が壊れてどうしようもなくなった。

 禁止の理由は「視力の低下」だと親は言い張っていた。実際視力はどんどん落ちていたし、ゲームは目に悪いというのが当時の常識だったものだから、僕にはどうにも言い返せなかった。言葉ではどうにもならなかったので、僕はベッドで夜通し泣き叫ぶことで抵抗の意思を表明した。「うるさい」と何度か怒鳴られて声は弱めたが、泣くこと自体はやめてはいけないと自分に言い聞かせ、必死で声をからした。

 当時、僕には目立った趣味もなく、特技もなく、ゲームをすることだけが楽しみだった。ゲームさえ持っていれば友達を呼ぶ口実になった。喩え興味のないジャンルや苦手なジャンル、よく知らない作品の続き物であっても、流行っていればとりあえず手を出して家に置いた。「そのゲーム、うちにもあるよ」と学校のクラスで伝えて「友達」を家に呼ぶ。

 当時の僕にとってみればそれは必死に友達を僕と関わらせる営みであって、親に邪魔されるのが苦痛だった。

 それがどんなに歪んだ観念で営まれる無意味で不気味な行為だったか、それを毎日のように見せられる親がどんな気分になっていたかまでは、僕は考えが及んでいなかった。そんな余裕もなかったのだろう。痛ましく思うが、やはりはっ倒したくなる。

 どうにかして「友達」を作りたかった。「友達」ができなければ人生は終わり。なぜなら「友達」でない人はいつでも僕を攻撃しうるから。当時の僕は本気でそんな心配を続けて、不器用な人付き合いを繰り返していた。

 いったい他者からどう見えていたのか。いじめみたいな大それたことは何もされなかったのに、未だにときどきフラッシュバックする。何とかして普通の人であろうとしている自分を、他者として見つめるという妄想。醜悪さに目を閉じたくなるけれど、胸の内から沸いてくる不快感はなかなか消えてくれない。見える見えないの問題じゃなく、自分の行いそのものは過去の事実なのだから、違っていると否定することができない。ただじっと無表情になって、痛みの波が引くのを待つしかない。

 

 人付き合いが苦手であることは結局変わらなかった。不器用な付き合い方はさすがに不味いと思って、無理矢理人の気を引くような真似も抑えるようにした。距離を置くこと。無理矢理人付き合いするくらいなら逃げること。高校時代は、内面的にはダメダメだったけれど、勉強という言い訳があったから逃げられた。大学生になってからも、少しいびつではあったけれど、勉強していればおかしくは見られなかった。

 学生の身分でいるうちは、他人と距離を置きっぱなしでも構わなかった。近づきたくないなと思ったら無表情で突っぱねることができた。いろいろな面が許されていて、そういう人もいるよね、で収められていたと思う。

 社会に出たらそれができなくなった。というか、してしまったときに被る不利益が半端じゃなくなった。苦手な人を単純に嫌うばかりだと信用も失うし効率も下がるし何よりも精神的に圧迫される。ド正論でぶん殴られることもある。人と交流するというのは人間の一側面という単純なものではなく、圧倒的な正義の側。できないものは落伍者だ。

 耐えようと思って、無表情を貫こうとしても、どうしても臨界点がある。身に染みると涙腺が緩む。どうにかできない自分がもどかしい。

 

 何がどうしてどうなっているのかわからないまま、とりあえず他人に傷つけられないように生きている。そのためには他人を傷つけないことが絶対条件で、気を遣いすぎていたら他人に自然に近づけなくなった。別に下心があるわけでもないのに、他人に近づく行為そのものが今は畏れ多く感じる。何が普通なのかわからない。何となくおかしいのはわかるけれど、そのおかしさを取り除く術がわからないまま恥じ入ってしまう。

 変わりたいと思えるときに変わった先のヴィジョンが見えているかどうか。僕は全く見えていない。先ほどから普通と言っているのは概念としての「普通」であって、明確にこうすれば普通、というものではない。

 普通の人なんていない、だとか、みんなそれぞれ苦しんでいる、だとか、そういう言葉はもちろん知っている。事実だとも思う。ド正論だ。だけどそれとこれとは別の話だ。「普通」になりたいと言っている人にそれは違うと首を振られても、それでも僕は「普通」になりたい。

 これでも「普通」という言葉の使い方に違和感があるならば、きっと僕の「普通」の概念は歪んでいるのだろう。だとすれば僕が求めている「普通」というものはまた別の言葉で置き換えられなければならない。そうしない限り答えはでない。でるわけがない。問題提起が間違っているならば考えていても仕方がない。

 いったい何が間違っているのか。どこから間違ってしまったのか。わからないまま、今年がまた終わろうとしている。これから先、無事に生きていられるのかもわからない。自信をつけろとは思うのだが、そもそも自分には自信がないのだろうか。何かがない。その何かがわからない。そうしてまた無表情となり、平気なフリしてストレスを抱え込む。終わらないなあ。

【文フリ感想文】清楚さの裏側に見られ、見つめられる――『スロウレイン』(青樹凜音/月と缶チューハイ)

 最初に読み終わった作品の方がTwitterをしていないみたいでしたので、いつものようにTwitterに垂れ流すばかりでなくブログにでも書き置きしておこうと思い立ってみました。

 

 「月と缶チューハイ」というサークルで頒布されていた、青樹凜音さんの『スロウレイン』です。

 そもそも最初に「月と缶チューハイ」の方(青樹さんかどうかは確認不足です)が僕のブースにお立ち寄りくださいまして、ほぼ直感で拙作を買ってくださったお礼返しの意味合いで寄らせていただいた次第です。

 

 以下、『スロウレイン』について。

 山の神木の木霊である「花音」は、とある辺鄙な神社に守り樹として挿し木された。最初のうちは不満を抱いていたものの、手入れをしてくれる巫女の結衣の真面目で清楚そうな雰囲気に好印象を抱き、心惹かれる。山での記憶は次第に薄れ、結衣への感謝を初めとする感情が芽生え始め、誰かと触れ合いたいと願うようになる。

 やがて始まる、結衣や他の妖たちとの接触。話し始めて初めて、本心や翳りが見えてくる。いつでもはぐらかしたり、花音をもてあそぶような結衣に対して、花音も段々と欲望を持ち始める。

 

 それは嘘だと私にも分かっているのです。本当に毛嫌いしているならば近寄ることなく離れる。ましてや会話などはしない。だけどこのように嫌みを口に出しながらも、付かず離れずの距離を保つ。その理由はただ一つ「私を手放したくない」から。

(スロウレイン 後編――2)

 

 

 冒頭から死を予感させているように、退廃的な雰囲気が物語中に感じられます。喋り方には軽妙さが窺えるものの、見えてくる物語はどことなく湿っぽい。淡い表紙や丁寧な文体には清潔感があるけれど内容は意外と突っ込んでくる。

 そんなギャップをおっかなびっくり楽しみながら、最後までじっくり読むことができました。

まあそんな驚きも、ちゃんと裏表紙の「同性愛官能小説」って文字を読んでいたらもうちょっと和らいだのかもしれませんが。

 

 ところで最後の方、割と重要なところで文章が途切れているような・・・・・・敢えてでしょうか、それともただのミスでしょうか。ちょっと気になるので、時間のあるときにサイトの方を確認してみようかな。

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