雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

浅田次郎『蒼空の昴〈上巻〉』(講談社) 備忘録

 毎朝10ページずつというローペースで読み進めていた『蒼穹の昴〈上巻〉』がようやく読み終わりました。読みながら、気になった言葉に付箋を貼っていましたので、それをここに書置きしておこうと思います。

p39

 抗う気力はどこにも残ってはいなかった。春児をこれほどまでに参らせたものは、ただ生理的な不快感ばかりではない。貧乏というものの極みの姿を、そしてなおかつ癒しがたい立身出世への渇望を、春児は目のあたりにしたのだった。

(宦官製造人の畢五の元へやってきた貧民の少年春児は、宦官となるべく刃物で性器を切り落とす様を目撃し、ショックを受ける。生々しい描写に読んでいる僕も身の毛がよだった)

p48

 「わからんかね、史了。この国はどこかまちがっているんだよ。我々が生まれてから二十年の間、いったい何が起こった。内乱と、外国からしかけられた理不尽な戦。その結果もたらされたものは、民衆への弾圧と不平等条約だけさ。そして不幸の原因はすべて我らのうちにある。つまり、論語読みの論語知らずばかりが国を支配したからだ」

(王逸が史了に語っている。この言葉の前に、史了は挙人のひとりである老人が病であるのを労わっており、そのことを王逸は褒め称えた)

p49

「(略)俺の言わんとしたことは、畏れ多いが陛下に対する『忠』ではないぞ。万民に対する『敬』を貫け、ということなんだ」

「そうだ。だから試験管も家庭教師も頭が足らんというのだ。つまりだな、アホどもはおぬしの言わんとするその『万民に対する敬意』という進歩的な概念が、てんで理解できなかったというわけだ。そこで、『敬を貫く』は誤用で、正解は『忠を貫く』か『天敬を貫く』だと判定した」

「それでは全体の意味も通らんよ。論文がめちゃくちゃになる」

「だから、奴らは世界観を全く持たないから、全体の意味も皆目わからんのだよ(略)」

(郷詩の策題の答案で、史了は『敬』の字を書いたがために減点された。家庭教師によれば『忠』に書き直せば一等だったと言う。しかし、王逸はそのことを上記の言葉のように非難している)

p57

「おい。べつに泣くことねえじゃねえか。なにも太監だから殺されたわけじゃねえんだ。泥棒なんかするからだよ」

 少年を胸に抱き寄せると、絹の手ざわりや、髷に焚きしめた伽羅の香りが、春児を悲しくさせた。

 なにも自分まで泣くいわれはないのだ、と思っても、奥歯を噛みしめるほどにうなじが痛んだ。耳が鳴り、喧噪は二人を夜の底に遺して遠ざかって行った。口の中がからからに渇いていた。

(罪人の宦官が処罰される姿を見て、春児が涙を流している。一緒にいる美少女のような少年蘭琴は、将来宦官となることが決まっている。常に蔑まれる宦官の姿を目の当たりにして、また動じない蘭琴のことを思い、春児の悲しみがせり上がっている)

p64

「受験生はみな鬼じゃ。人の情も忘れ、鬼になって勉学をせねば進士登第など覚束ぬ。そしてその鬼どもがいずれ国を動かす。この国が諸外国に蹂躙され、民が塗炭の苦しみにあえいでおるのは、実はみな、鬼どもが天命を荷っておるそのたたりなのじゃ。おぬし――」

 老人は涙に濡れた顔を文秀の鼻先に近付けて、唸るように、力強く言った。

「おぬし、必ず進士となれよ」

(試験会場で文秀(史了)の労わりに触れた老受験生は、感激し、激励の言葉を贈った)

p151

「心から愛するものを、陛下はお探しになっておられるのでござりましょう。誠に、おいたわしい限りにござりまする」

 と、ようやく端的な言葉を、カスチリョーネはふり絞った。

 泣きくれた顔を上げる。乾隆の姿はかがやかしい乾清宮の玉座の上に、まるで巨大な宝石にうがち出されたもののように定まっていた。

 皇帝は龍袍の膝を組み、冠をかしげて細い指をこめかみに当てた。それからやおら居並ぶ宦官たちを見渡して、うろたえたようにこう叫んだ。

「愛――那是甚嗎?」

 愛――それは何だ、と。

(私はなぜ戦うのかと問う乾隆帝に、カスチリョーネが愛だと答え、乾隆帝は当惑した。彼は愛を知らなかった。それがために戦いに明け暮れていたのである)

p158

「(略)四海をわがものとし、五族をまつろわせたる朕に、なにゆえ香妃の心ばかりが手に入らなんだ。答えよ老師」

 乾隆の苦悩がただ一点の鞭から生じていることを、カスチリョーネは気づいていた。どうしても帝の手に入らぬもの、それはあの紅色の壁のうちにはなく、城外の巷にはたとえどのように貧しい胡同にも、石ころのように転がっているものであった。

 そしてそのありようを帝に教え訓すことは、いかなる諫言をなすよりも難しい。

「お答え申し上げまする。何びとも、人の心を金品で購うことはできませぬ。これは人の人たる所以でござりまする」

(捕虜となったジュンガルの王妃は、美しさを讃えられ、香妃と名付けられた。しかし彼女は一度として乾隆帝に心を開くことなく、病に伏せり、亡くなった)

p163

 「だが、朕は知った。そもそも、天下は虚しい」

 龍玉は乾隆帝の腕の中で、生ける者のように光を増し、気を発し、低く唸り続けていた――。

(カスチリョーネに龍玉を見せ、その絶大な効果を教えつつ、最後に呟いた言葉)

p194

「主客顛倒とはまさにこのことだね。まぎれもなく太祖公の嫡流である親王殿下が叩頭なさった相手はいったい誰だ。奸臣と太監。それに下級旗人あがりの女。これじゃ孔子様の訓えも何もあったもんじゃない。この国はもうめちゃくちゃだよ」

西太后に対して顔を上げていたことで将校あがりの大臣栄禄に咎められ、屈辱的に頭を下げた醇親王は、呼ばれていた三人の進士、文秀、王逸、順桂らに述懐した。それをうけて、順桂が国を憂う。こののち、順桂が葉赫那拉の呪いを説明し、西太后が国を亡ぼすと語る)

p291

 長い執政の果てに、慈禧は自分がこの国と同一化していることを知っていた。自分の死とともに、この国は終わる。いや、終わらねばならない。

(後継の愚かさを感じる慈禧(西太后)は、国の老いを感じ、世を儚む。自分が国を引っ張ってきた自負はあるが、それは望んだことではなく、逃れようのない重責だけが積み上げられていた)

p349

「(略)みな、皇帝とは名ばかりの、天命なき天子だったのじゃ」

(龍玉についての衝撃の事実を知った恭親王は、曽国藩、李鴻章、そして醇親王に向けて狂ったように笑いかけた)

 上巻では清国の政治的腐敗を背景に、人々の思いが錯綜している。旧態依然に異議を申し立てたい文秀ら若き進士たち。つねに苛立ち暗い想像にかられる西太后。国が亡びる寸前の中で、春児だけが不思議な縁に導かれて立身出世を遂げていく。

 総じて、物語が始まったところです。丁寧に起承転結の前半が終わった印象があります。これからどう物語が発展していくのか、とても楽しみにしているところです。

 ところで、この本は図書館からの借り物なのですが、帯のところに『このミステリーがすごい!』で過去10年間の第1位に輝いていると書かれています。ミステリーの要素があるというのでしょうか。だとすれば、龍玉ですかね。その点も含めて読んでいきたいですな。