雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

【感想】ノエル―a story of stories―(道尾秀介)

人間は誰もが悪意を持ちうる。

道尾秀介さんの作品を読むと、いつもこの感覚がまとわりつく。

物語だとわかっているのに、不穏さに胸が締め付けられる。環境や精神の変遷をうけて、人間らしさをつかさどっているはずの理性がくるりと真っ黒に染め上げられる予感がある。

 

人間が平気で街を歩けるのは、周りの人間が自分を襲ってこないという信頼があるからだ、と昔どこかで聞いたことがある。

人を殴れば自分にも罰が巡ってくるとわかっているからこそ、たとえ気にくわない人がいたとしても、そう簡単には手は出ない。ましてどうでもいい他人ならばなおさらだ。

道行く人も、自分と同じように、他人を襲わないだろう。その信頼があるからこそ、雑踏の中でも僕らは発狂せずにすんでいる。

だけど、もしも周りの人が、人の形をした化け物だったら?

道尾秀介さんの作品を読んでいるときに感じる怖さは、これだと思っている。

 

ノエルについて。

いくつかの童話を巡る、三つの物語。結びつきはあるものの、それぞれの話は独立して成立している。

人の悪意を垣間見てしまった少年。悪意を感じとり、また自らも悪意に染まろうとする少女。終の時を自覚して人生に、物語ることに幕を引こうとする老人。

読み手を絡め取り、引きずり込むことはいくらでもできたのだと思う。この作者であれば、なおさらそれは容易かったことだろう。

だから、巻き起こる奇跡の所業には少し唖然とさせられる。

 

僕は事前に、エッセイ集『プロムナード』を読んでいたから、少しだけ前後関係を理解している。だから、この『ノエル』が作者のとある昔の創作物と呼応していることがなんとなくわかる。冗談のような、短い気楽なお話だ。

道尾さんは、決して人を絶望に突き落としたいわけじゃないのかもしれない。

そんなことを考えながら、構成の妙が染み渡る作品でした。

【感想】くちびるに歌を(中田永一)

 長崎県五島列島、とある中学校の合唱部。顧問の先生が産休に入り、新しい先生が東京から訪れる。

 NHKコンクールまでの日々を、三年生の子どもたちを主体として送る物語。

 

 中田永一名義の小説は『百瀬、こっちを向いて』以来となります。

 もちろん本名義の方も知っていて、そちらの方には実は苦手意識があるのだけど、これを機にそろそろ手を出しても良いのかな、と思う。

 

 さて、『くちびるに歌を』。

 作中では、合唱曲である「手紙~拝啓十五の君へ~」にちなんで、部員が未来の自分に向けて手紙を書くことになる。

 メインの視点となるのは二人なのだけど、周りの子たちにもそれぞれに悩みがあることは、行動や言動から示される。解決できるものもあれば、生きている限りは逃れられないものもある。

 解説にも書かれていたけれど、自分に向けて手紙を書くと言うことは、今の自分を客観的に見ることでもある。家庭や環境のしがらみを離れ、自分自身のことについて考える。その孤独な作業と、合唱という、決して一人では成立しない行為が対置されている。物語当初から読み進めて、各個人の悩み、個性がわかってくると、同じ歌を同じ旋律で歌うことの難しさが改めて感じられる。彼ら一人一人は、決して一緒くたにはできない存在なのだから。

 

 もうひとつ触れたくなるのは、やはり構成力の巧さ。

 誰を助けたり、支えたり、勇気づけたりする。無意識のうちということもある。どうしてそのようなことをしたのか、説明のないこともある。

 他人の心のうちはわからない。誰もが手紙を見せてくれるわけではないのだ。

 だけどもしもわかりあえたとき、誰かにとって自分の存在が必要だったと認識できたとき、自己の存在意義を疑っている者にとって、その事実はどれほどの救いとなるだろう。

 

 最後になるけれど、作中に登場した五島列島出身の美術監督山本二三さんですね。

 遠い場所の景色だと思ったら、実は何度も見ている空なのかもしれない。作品とは別のところで、ロマンを感じたりもする。

【感想】月と蟹(道尾秀介)

 道尾秀介で思い出すのは、『向日葵の咲かない夏』だ。大学時代に読み、泥の中に沈み込んでいくような不穏さが癖になり、真実が明らかになったときは息苦しさを覚えた。後に弟に貸し与えて、あまり好意見が返ってこなかったことにモヤモヤもしたのだが、今となってはなんとなく気持ちはわかる。読んでいて気持ちの良い部類の話では決してないからだ。

『光媒の花』『鬼の跫音』を読んだのち、しばらく触れずにいたのだが、先日エッセイ集の『プロムナード』を読み、再び道尾秀介という作家に興味が湧き、同版元の『月と蟹』を購入した。

 

 海沿いの街に祖父と母とともに暮らす小学生の慎一は、友人の春也の提案で、洞穴の中に潮だまりを作り生き物を育てる遊びを始める。昂じてヤドカリを炙り殺した火、偶然願い事が叶ったことから、海で捕まえたヤドカリを洞穴に運び、願い事をしながら炙ることが習慣となる。願い事は不思議なことに次々と叶えられていく。

 かつての海難事故で、慎一の祖父は脚を失い、級友の鳴海は母を失った。その鳴海が神社の祭事に参加しているのを見学したときに、彼女の父親を慎一は目撃し、とある事情から自らの母親との関わりを疑い始める。

 父子家庭で育つ鳴海の本音を聞いた慎一は、彼女を洞穴に連れて行くことを思いつく。それが春也と慎一との間になった繋がりに歪みを生むことも知らずに。

 

 暗く沈み込むようなイメージが、読んでいる間ずっと身体にまとわりついているかのようだった。飛び抜けた暴力が振われるわけではないのに、破滅への予感や、登場人物たちの見え隠れする悪意により、読む側の胸が締め付けられる。

 子ども時代に見上げた大人たちが多くの嘘をついていることを一体いつから認識できていたのだろう。それらの嘘に気づいたとき、長くは触れていたくない、できることなら目を瞑っていたいと思うことがいくつもあったような気がする。

 

 子どものままでいたかったと思うのは、いつだって大人になってしまってからのことであり、当然ながらもう元には戻れない。

 そして思い出は、いつしか美化される。キラキラと輝くものに囲まれていたような気がする。洞穴に溜る死臭や、おどろおどろしい風の反響に、素直に恐怖を抱いていた頃をいずれ僕らは忘れてしまう。

 そんな、忘れてしまっていた気持ちが呼び起こされる。誰しも感じたであろう大人との違い、その壁への苛立ちと恐怖が作中には散りばめられている。

読み終えたときに、僕はある種の安堵を感じていた。この息苦しい沈水から戻ってきたことを喜んでいる自分に気づき、誰に対してというわけでもなく悲しくなった。

【感想】一人っ子同盟(重松清)

 自分が初めて重松清作品に触れたのがいつだったか、実のところ曖昧だ。

 大学一年生の暇な時期だったか、高校卒業間際の空白期間か、あるいはそれよりもずっと前のことか。

 とはいえ最初に購入した作品は覚えている。地元の古本屋の、漫画コーナーにおいやられるようにして鎮座していた文庫本の中で、『ナイフ』を手にした。それが最初だ。

 短編集であるこの作品のうちのある一作に、僕は強く心打たれた。そこには、当時の僕がなんとなく感じつつも、どうしても言語化できなかったとあるモヤモヤした気持ちが表現されていた。

 この人には僕の気持ちがわかるんだ。

 言葉にすると不遜すぎて、ちょっと寒いくらいだ。それでも僕の胸に湧いたのは純粋な喜びだったと思う。読むだけで胸に何かが込み上げてきた。後に読書にはまる一因がこのときの体験だったことはまず間違いないだろう。

 

 それからも折に触れて重松清作品を読んできた。

『ナイフ』と同時期に発表された『エイジ』、目を背けたくなる暴虐に吐き気を催しながら読み耽った『疾走』は後に友達に散々薦め、後輩からは『ビタミンF』を薦められた。

 就活の最中に『あの歌が聞こえる』を読み、新宿駅のカレー屋でひっそりと余韻に浸った。就活セミナーで乗せられて購入してしまった日本経済新聞に『ファミレス』が連載されているのを見つけたときは妙に安心してしまった。社会人になってからの初めての昼食には『見張り塔から ずっと』を持参した。

 その他、『トワイライト』、『流星ワゴン』、『カシオペアの丘で』、『日曜日の夕刊』、『ロング・ロング・アゴー』なども読んで、いつでも目頭が熱くなった。登場人物たちは多種多様で、質感だって違うのに、根っこのところが共通していて、それがちょうどツボにはまるらしく、不思議なくらい毎回泣いてしまっていた。

 

『一人っ子同盟』は、久しぶりに読む重松清作品だった。

 昨年刊行の本作品は、執筆時期も四年前。ほのぼのとした印象を受ける表紙に違わず、主人公の性格も、街や学校の描写も懐かしさを感じさせる。

 舞台となるのは昭和の後期。プライバシーが認知され公共施設や街のルールがこれから厳しくなることを仄めかしつつ、社会にはまだ十分なゆとりがあったことが描写から伝わってくる。

 当時、家庭は四人家族が当たり前だった。一人っ子なのは主人公ノブと、おなじクラスの公子、あだ名はハム子の二人だけ。最初にそのあだ名を口にしてしまい、けんかになったときから、二人は腐れ縁になり、六年生になる頃には、口やかましい級友から「一人っ子同盟」などと呼ばれてしまう。

 四月のある日、見知らぬ小さな男の子がハム子につきまとっているのをノブは目撃する。ハム子のことを「おねーちゃん」と呼ぶその子に対し、公子は決して「弟」とは呼ばなかった。

 また、同じ頃、ノブの暮らす団地には新しい四年生のオサムが入ってくる。オサムと仲良くするように、と母親から言われるものの、オサムの異様な雰囲気に圧倒され、今後の生活が脅かされるのではないか、と不安を抱く。

 

 ハム子とオサム、二つのワケありの家族に対し、ノブの両親、特に母親は相談を持ち込まれたりと度々関わりを持つ。ノブにしてもまたハム子に命令されたり、オサムのことが放っておけなかったりする。ノブと母親の類似点の面白さもさることながら、彼らと適度な距離感を保ちつつ、大事なところではアドバイスをもたらしてくれる父親も心強い。

 だが、ノブの家庭も問題がないわけではない。亡くなった兄の存在が、母親の心には常に残っている。兄のことを尊重すれば母は喜ぶ。だが、自分は全く覚えていない。ウソを吐くことの罪悪感をノブは一人、誰にも言えず噛みしめる。

 

 懐かしさともどかしさ。大人になりきれない自分への苛立ち、また大人に対する苛立ちが、ノブの心に度々沸き起こる。思春期よりもさらに前、子どもとしての悩みに真っ正面から立ち向かっている彼らの姿は、微笑ましいのを通り越して、いつしか凜々しく感じられた。何事も割り切れないハム子のことを子どもっぽいと笑うのは簡単で、だからこそ、改めて振り返るのが難しい。ノブの視点を媒介にすることで、ようやく僕も彼らの抱く、大切な物事を思い出すことができたと思う。

 

 物語の最後には卒業が待っている。

 だけど、読み終わった今でも、まるでノブとハム子がこの世のどこかにいるような気持ちがする。

 読み終わってしまったことが虚しく、それでいて嬉しい。そのような力のある物語でした。

【感想】路(吉田修一)

一九九七年、台湾の台北―高雄間高速鉄道建設工事の入札にて、自らの技術力を過信していた日本は、より低い予算を呈示した欧州連合を相手に敗北を喫した。しかしその後、台湾からのまるで恩赦のような申し出により、敗者復活の可能性を得る。三年後の二〇〇〇年末、新たな入札の結果、逆転勝利を勝ち取る。日本の誇る新幹線の技術が初めて海外で実を結ぶ。国内外からの注目が集まる最中、担い手である商社に勤務する若手社員、多田春香は、突然部長に呼び出され、台湾に行く気はないかと尋ねられた。過労気味の恋人、繁之の身を案じつつも、気づけば春香は即答しているのであった。

 一方、交通工学を学び、そのまま建築会社に就職して高速道路建設等に携わり、現在は現役を退いていた老人、葉山勝一郎のもとにも台湾の高速鉄道建設工事の方は入る。教えてくれたのは、急な病のために入院生活を送る妻。葉山が台湾の生まれであることを知っていた妻は、これを機に台湾に訪れてみてはと諭す。だが、葉山は開業予定である五年後にあまり現実感を抱けずにいた。

 さらに台湾では、工業高校卒業後、未だ定職にありつけず、ふらついている不良青年の陳威志が、スコールに降られたのちのグァバ畑にて、幼馴染みでありながら長いこと会わずにいた張美青と再会していた。見違えるように綺麗になっていた美青との距離感を計りかねている彼らの眼前に、高速鉄道の整備構造が映る。今はただの更地にすぎないその場所に、威志は鉄道が猛スピードで駆けぬけていくのを夢想する。

 

 ここに挙げた三名意外にも、春香の上司であり、丁寧な仕事が裏目に出て台湾の南国気質に上手く染まれず、水商売に入り浸る上司の安西、春香がかつて台湾へ一人旅に訪れたときに出会い、再会する約束をしたにも関わらず手がかりを消失していた謎の青年エリックなど、多くの人物がこの物語に入り乱れる。登場当初はどのような関わりがあるのかもわからない彼らは、高速道路建設の進行や停滞に合わせ、同じように前進したり、あるいは立ち止まって思い悩む。

 

 この物語は一年ごとに区切って展開される。登場人物が多いにも関わらず、映し出される姿は一年のうちの本の一瞬だ。まるで一年単位でのスナップ写真を見ているかのような気分になる。一応主役級である春香は若干多めに場面が足されているが、それでも一年に三回ほどだ。

 ある年で巻き起こった問題が、翌年のスナップ写真で顛末を解説されることもある。行間を読むのは疲れそうにも思えるが、読んでいる間にも苦痛は感じなかった。五年の間にも変わりゆく彼らの姿は、清々しくて、とにかく見ていて気持ちが良い。

 

 全体から伝わってくるのは台湾の情景だ。作者に思い入れがあるのだろうか、日本に近いところもあれば、南国気質でまるで違うところもある。だからこその悩みもあれば、新しい気づきももたらしてくれる。通読した今、台湾が南国であることを僕は知っている。そこにはグァバ畑があり、夜祭りのような熱気のある出店が並ぶ。中国との距離感、緊張、日本を含めた他国との関係性が物語を通して察せられる。

 ただ、深刻な話が主題ではない。高速鉄道建設工事も言ってみれば背景だ。それに関わる人々の交流こそが一番の見せ場であり、人と人とが繋がることの単純な面白さが作中にはちりばめられていた。

 どんな苦境があろうとも、人生は楽しむもの。それを教えてくれる物語でした。

他者と自己についての日記

 ゴールデンウィークなので実家にいる。明朝には職場近くの住居へと帰る予定だ。 

 実家は小学校と目と鼻の先にある。本気を出せば通うのに1分も掛からない好立地だが、小学生の自分は嫌がっていた。他の子たちのような、小石を蹴ったり寄り道をしたりして小一時間ほど歩く家路というものに憧れを抱いていた。今にして思えば学区内はほとんど畑だったので碌なことはできなかったはずなのだが、小学生の自分は他者と違うことに過敏になっていた。

 他者を意識していた一方で、僕は他者を排除もしていた。もっと有り体に言うと他者を自分と同じ生きた人間だと認識していなかった。他者は自分を傷つけうる存在で、自分は他者からの報復を受けないように行動しなければならない。そんなことを考えていたものだから中学生のある時期に精神の糸が切れてベッドから起き上がらずに『らせん』をひたすら読み込んでいた。もっとも読み切れなかったのだけれども。

 心療内科に何度か通院した僕は再び中学校に通い始め、授業を受けた。勉強さえしていれば今ある環境から脱せられる。受験が始まれば勉強していることは必ず報われると信じてひたすら教科書を読み込んだ。受験が始まると志望校別でのグループみたいなものができ、僕も同じ高校を志望する人と受験という話題で対話をすることができた。僕はもうそれだけで嬉しくてまるで人間として認められたかのような気持ちになっていた。グループの中で進学塾に通っていた人たちは無事に合格し、僕は落ちた。受験は手段であり目的ではなかったので想像していたよりも哀しくはなく、むしろ卒業という話題を手に入れて周りと対話する契機を手に入れこれまた自己認識を高めるに成功した僕は、卒業後、たまたまオープンスクールに参加していた比較的近場の私立高校に通うことになった。

 僕が他者のことをもしかしたら敵じゃないのかもしれないと思い始めたのは高校生のときからで、それでも自分の矜持を保とうとひたすら勉強をした。このときの勉強は手段の範疇を超えはっきり目的となっていたので、大学に進学した際には無目的となり、勉強の仕方さえわからないくらいの恐慌に陥り虚無感に苛まれ、ただ共通の話題が欲しいためにアニメを見たり、所在なさに皇居の周りをぐるぐる回ってランナーに追い越されたりしていた。ぐるぐる回って辿り点いた神保町で何も言わなくても書籍と触れ合える環境に妙に感化され、文学フリマを見つけて足を運び読書家になろうと決意した。以来環境が変わっても読書だけは続けていられているのは誠に幸いというほかない。

 気がついたら本も書いていた。もっとも最初に書いたのは中学生のときで、ノート三冊ほどを費やして児童文学めいた何かを書いてぐしゃぐしゃに潰したのちは2ちゃんねるでSSを書いていた。その後自分が真っ当な人間であるという認識が再び揺らぎだした大学三年生のときに再びネットの中で小説を書くようになった。何かを吐き出したかったかもしれないが、当時の作品群を自分で見つめ直しても何がしたいのかよくわからない。ただひたすら自分ではない何者かになりたかったのかもしれない。それもできるだけ多種多様な何者かにだ。きっとその何者かは正体が判明してしまえば死んでしまうような便利な奴だ。

 そうして僕は僕の世界観を押し広げるために小説を書いていたのだけれども、自己の拡張を手段として新しい何かを得ると言うよりは拡張そのものが目的なのでそれ以上には勧められずいくつもの作品を途中で放棄した。短編ならなんとかなるかと思ったのだが社会人になり仕事が始まればとても即興では書けなくなった。これで諦めることになるかなと思ったのだが、何だかんだでむらむらしてある程度計画性をつけて作品を書いている。

 先日『響~小説家になる方法~』という漫画を読んだ。マンガ大賞を受賞したとかで有名であったのだが、どストレートで小説家になる方法などと書かれると、果たして自分は本当に小説家になりたいのだろうかという疑問からもなかなか読む気になれずにいたのだが、この連休中ならと気分が大きくなった手にし読み進めた。主人公はつまらない小説をつまらないと切り捨てる。独りよがりな作品には独りよがりだと言ってやり、言いたいことが見つからず迷走する作家にはなんで生きてるのかと問い詰め、目的を見失った小説を上梓した友人には敵意すら示し、上っ面だけよくして懐柔しようとしてくる輩は全員蹴飛ばし、ぶち切れて真顔になるといい顔になったと褒めそやす。名言はされていないがこの主人公にとってみれば小説は自分の気持ちを載せるものであり、自分にウソをついている小説は悪だということなのだろう。だんだん行動が派手になるのでちょっと置いてけぼりを食らいそうにはなったが、心を込めて向き合っているのにウソをつかれるのがいやだという気持ちには共感し、言っていることには背筋が伸びる思いだった。

 自分が書きたいものはなんだろうと改めて考えると自分の悩みにぶつかる。それは冒頭で述べたような人間関係であり、他者との関わり方であり、自分という存在をどのようにこの世に定義するか。ずっとそればかりに考えて身もだえして普通になったか普通でないかそればっかりを主眼にして疲れ仕事に打ち込んだりもしたのだが、やっぱり小説を書きたいと思い、実家に戻っても小説を読み、こんな文章を書いている。何を目的にして書き始めたのか。『響』の感想文にしようかとも思ったのだがそれにしては私的な内容が多すぎるので自重する。それでも何らかの影響はもたらされているし、それは何かといえばやはり何を書いていこうかという問いに端を発しているのだと思われる。

 そんな感じで他者を突き詰めていこうとしたところに、先頃『友だち幻想』(菅野仁)という新書を読んだ。友達は全てまやかし、お前は一人きりだ、などという強い人間志向の本かと思ったのだが、実際にはそんなことはなく、友だちが自己と同一であることはありえないと断言してくれ、無理して付き合うものでも作るものでもないということを教え諭してくれる良書だった。学生に語りかけるような文体で、出版年は2008年。ちょうど自分が高校生のときである。自分に投げかけられた言葉でもあると解して、やはり背筋が伸びる。昔聞いたことを今思い出したという体にすればいつでも影響を受けられるのでお薦めですよ、などと嘯く。嘯くと言ってみたいだけですが。

 他者と自己は違う。それならば、他者になり他者になろうとしていた僕は、何になれていたのだろう。もしかしたら何にもなれず、それどころか気がつかないうちに自己を浮き彫りにしていたのかもしれない。細々と書いているうちについたいいねやブックマークの数、ちょっとした感想に何も感じなかったわけはない。僕で無いものを生み出したつもりがそこには僕が見え隠れしていて、僕が見つかると嬉しくなった。それでいて僕を隠そうとしていたので苦しくもなった。そんなところなのではないだろうか。

 まとまりもない文章を最後に締めくくる言葉をなかなか思い浮かばなかったのでここまでダラダラ書いてしまったのですが、明日が仕事であることを思い出したのでこのあたりで失礼します。憂鬱、憂鬱。