雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

【エッセイ】綺麗と曖昧

星がキラキラ光る、というとき、キラキラという音は聞こえない。

この「キラキラ」は擬態語で、光るに掛かる副詞であり、明滅する様を言葉で表したものだ。

擬音語、擬態語は日本語では特に多く、その数は英語の3倍から5倍とも言われている。

このことから、日本人は自然の様態や変化に敏感で、という感じで始まる多くの論文を、特に中学や高校の国語の授業や受験勉強対策の文章として多く見てきた。

 

では英語は自然を表現する力が弱いのかというと全くそんなことはない。

例えば先の「キラキラ」は、英語では"twinkle"という動詞で表現する。

もうひとつ、例えば「歩く」という言葉は、直訳としては"walk"だけど、散歩なら"saunter"、ぶらぶらするなら"stroll"、徘徊するなら"wander"、休息・息抜きとしてのそれなら"lounge"、道草を食いながら遠方に旅行する感じなら"loiter"と、単語そのものが変わっていく。

何のことはなく、人間ならば感受性は同程度に持っている。言語によって変わるのは、内面じゃなく、表現の仕方だ。それは優劣をつけられるものじゃない。方向性がそもそも違うのだし。

 

よくある、日本人は虫の声を言葉として認識し、英語圏では雑音として認識する、みたいなのも、だから感受性の幅が云々と話を進めていくのは、とてももったいないように感じる。

虫の「声」が「雑音」になってしまうのは、どういう経緯なのだろう。

日本人の身体とか脳の使い方とか、そのような先天的なところに理由を求めるのはあまり好きじゃない。

いくつもの用例を精査して、原則と例外を調べ上げて、そのようにして浮かび上がる音にまつわる文化的な違い。

学術的に調べてようやく見えてくるようなものは、ツイッターで泡のように持ち上がる要約文では決して掴みきれない。

 

話は逸れるけど、優劣とか、間違いと正解とか、答えが明確だと文章も短くてすむし、何より単純で理解がしやすい。だから読まれやすくなる。

本当に細かく調べ上げたものは長すぎて読まれないだろうし、二項対立のような綺麗なものがいつもあるとは限らない。

というか、綺麗なものは基本的にはない。どちらが正しいのかはっきりしない。それが普通のことで、わかりやすい文章というものは、その曖昧さを排除することでなりたつ。

 

僕の今日のエッセイも、言葉の違いを面白おかしく紹介するつもりが変な方向に逸れているし、綺麗なオチは今日も思いつきそうにない。

そんな曖昧さもいいものだと、結局はそれを言いたいがための、長い言い訳なのですよ。