【エッセイ】会話
結構な昔、人の話を聞いていると創作に役立つと聞いて、人の会話に聞き耳を立てていた時期があった。
喫茶店や電車の中、たまたま同じ方を向いていて、声を拾い易い人とかを対象にしていた。
一番多く聞こえてきたのはお金の話で、アルバイトから投資の話まで、一日のうちに聞かないことはないというくらいに聞こえてきた。
都会ではほとんどお金の話と言って良いくらいで、奥まった喫茶店で一度、精神世界の話を繰り広げている妙齢の方を目撃した程度だ。
地方になると地元の関係者の話が増える。愚痴と健康の話がほとんどだった。褒めるってことはほとんどないか、あっても、あの人と自分の違いを悲しげに語るような感じだ。
とまあ、こんな具合で、創作に使えるかどうかといえば、ピンとこなかったのが正直なところだ。
小説の会話文というのも、あからさまに冗長なものが平気で世の中にはいっぱいあるわけで、
その一方で現実の会話は、接続詞も曖昧だし論理性も破綻しているし、言いたいことを言うだけであることの方が多い。
いや、そもそも会話ってそういうものか。
だとすると小説で会話文を載せることにどんな意味があるというのか。
考えすぎると頭が痛くなってくる。
キャラクタの掛け合いを表したくても、面白い会話はもちろん、相応しい会話となるとなおさら難しい。
話し言葉で全然違う人になりきれないというか、なんか全員同じような口調になるというか。
怪しくなる前に会話文を全て消して地の文で書き記す。
それでも小説としては間違っていない。情感を込めてかけば、淡白とも思われない。
と、こんな感じで会話はどんどん書かなくなってくる。
でもときどきは憧れますよね。キャラクタ同士の掛け合いとか、気の利いた言い回しとか。
憧れているうちは書けない気もするんですけども。
しかしまあ、これもまた不思議なのだけど、事前に組んだプロットが破綻するのは会話文からが多い。
筋書き上は整っているのに、口に出して主人公や誰かしらが喋ってみると、明らかに性格の方向性が急速に決まってくる。
こんなこと言う奴がこういうことはしないやろ! みたいな偏見が打ち砕かれて、プロットを練り直したり、小手先の技で乗り切ったり。
だから、事前に決めるべきなのは話し方で、何かの話題を口にする様を想像するといいのかもしれない。
後々になって違和感に苛まれるよりも、違和感の種を見つけていく方が良い。
わかっていても、難しい。