【エッセイ】夕焼けと青空
自分で小説を書いているときに、よく景色が夕焼けになってしまうことがある。
学生が主人公なら、放課後がちょうど夕焼けの時間だから、無理もないのかもしれないけれど、そうでない場合にもちょくちょくあって、なんだかね。
そんなにこだわりがあるとも思っていないけど、何かの場面を想像するときに、つい夕焼けを選んでしまうらしい。
そういえば初めてまともに取り組んだ一般小説の、ヒロインの名前は夕だった。
夕焼けは何をイメージさせるだろう。
学校や仕事が終わって解放されたとき、友達と別れるとき、あるいは家族と再会するとき。
このように考えると、何らかの変わり目であることが多い。
そもそも夕焼け自体、朝と夜の変わり目であるわけだし、太陽と月の交代劇でもあるわけだ。
そしてその変化はじわじわと進んでいく。まだ日が暮れていないのか、それとももうくれたと見做すのか。暮れ泥むと書いて「くれなずむ」、変化のただ中にあって、未だ陽光の執着する様を表している。
暮れ泥めば、いつの間にか視力は奪われていく。行き交う人々の顔もよく見えなくなり、誰そ彼という問いかけから「黄昏」という言葉が生まれた。ここでは昏い黄色と書くんですね。
夕方の煌めいた色合いが美しさに繋がることもあれば、赤さから血を、濃くなる陰から暗部をも想起させる。
では、青空ならば、イメージは穏やかなままだろうか。
例えば、映画の「怒り」では晴天の下、とある人物の歩く様を延々と映すシーンがあった。
その人物は犯人で、彼はやがて被害者の家に辿り着き、凄惨な事件を引き起こすことになる。
言ってみれば、事件の発端を表しているそのシーンは、青空で、ジリジリと音の聞こえてきそうな夏の日差しと、息づかいを感じさせる足取りが目に焼きついた。
このときの青空は、犯人がこれから背負う罪を咎める意味合いがあるように思われた。
誰の上にも広がっている、公正な青空、殺人を許さない社会の法とも通じ合っているように感じられたからだ。
これらの想像は、別に当たっていなくていい。
どちらかというと、自分の中で記憶に残った景色があって、その理由を後付けで構わないからつけてみると面白かったりする。
後付けの理由って言うのはフィクションだけど、もっともらしいことが言えれば自分なりに納得がいくからね。