雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

【エッセイ】包丁と飛び出し

たとえば包丁を使い終わって、シンクの傍に一旦放置する。

鍋をいじったりと別のことをしていると、包丁のことが気になってくる。

今足に落ちてきたら大変だよな、なんてことを考えて怖くなって、さっさと綺麗に拭いて片付ける。

そんなことを繰り返しているうちに、包丁はあんまり使いたくないなと考えるようになったりもした。

そんな縛りは実際には不可能だから、怖々扱うのが現状だ。

 

実際足に刺さったら、そしてそれが結構な深い傷ならば、すぐにタオルか何かで塞がないといけないだろう。

自分で病院に駆け込むのか、それとも救急車を呼ぶことになるのか。

救急車の番号って何番だっけ、とか調べているうちにパニックになりそう。

どちらかというとそんな混乱に見舞われる方が怖い。

 

何年か前、僕の車の前に、脇道から車が出てきて、ぶつかった。

相手も自分も軽傷で、通りすがりの人たちも気にしてくれて、僕に不運だったねとか声を掛けてくれる人もいた。

おかげでかなり落ちついて、保険会社に連絡したりとか、手続きもスムーズに行うことが出来た。

心臓の鼓動は正直痛い程だったけれど、レッカー車のおじさんは妙にノリノリで、修理屋に到着するまで、ずっと最近の出来事とかを気軽に話してくれていた。

狙ってやったことではないだろうけれど、そして話していた内容も、もう思い出せないくらいだけれど、あれもまた、僕を落ちつかせてくれた。

 

しかし、事故は事故で軽くトラウマになって、それ以来夢の中で交通事故に遭って飛び起きることがある。

突然工事現場に入ってしまって、凹んだ地面に突っ込んだりとか。幻の衝撃に悲鳴を上げて、実際に声が出たのかどうかわからないまま、薄闇の中でぼーっとする。

夢でなくても、たとえば街中で飛びだしてきた車を見たり、逆に車線変更した際にやたらとパッシングを食らったりすると、自分は今危険だったんじゃないだろうかと思って胸がざわつく。

前はうまくできたけれど、今度はどうなるかわからない。自己責任で対処すること。

 

危険運転を目の当たりにしたり、パッシングを食らうと、その度に一瞬車が怖くなる。

でも、生活のためには車を使わないといけない。

車の危険性については慣れるしかない。

トラウマに対しての反応や反省は、この先薄れていくのだろうか。

それともこのまま、夜中に僕をびくつかせるものとして、付き合っていかなきゃならないのだろうか。

 

まあでも、運転する側としては、相手には緊張していてほしいかな、とも思う。

包丁だって、気をつけているに越したことはない。

緊張しているな、ということさえ麻痺してしまえば、それが普通になればいいのだろう。

そんなことを考えつつ、年末年始は飛びだしてくる車を何度か見て、ヒヤヒヤ過ごしておりました。