雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

四半世紀の言葉足らず

『時をかける俺以外』を最初にブーン系小説の形で発表したとき、主人公の友人は自殺をした。その後、カクヨムで投稿する際には事故という扱いにした。どちらが上というわけではないけれど、深い理由もないままに言葉だけで、自殺を安易に扱うことがつらくなり、変えてしまった。

元々の自殺の理由は勉強を苦にして、引いては家族への期待の重さに耐えきれず、というもので、これは当時の10代の自殺原因の理由として最も高いものを選んだ結果だった。家族云々は僕の創作で、統計上は勉強の二文字に集約されていたから、詳細はわからない。正直、最初に統計を見たときは、なんで勉強で死ぬんだろうと不思議に思ってしまった。

 

運動が苦手で、頭の回転も遅かった僕は、人と関わることもまた苦手だった。小学校はまだマシでも、中学校で自意識が生まれ始めると、何事も上手くいかない自分は嫌で仕方がなかった。

自意識を守る為に、ほんの一時期、引きこもり生活をした。『らせん』を読んで頭が痛くなって寝ていて、ひとしきり泣いて戻った。そして、勉強がある程度できたこと(決して頭が良かったわけではなく、たまたま順位が小さい数字だった)に気づいてから、そこに救いを求めた。勉強をして好成績を収めれば、それが僕の個性になると信じて邁進した。

僕のいた中学校は、畑ばかりの景色にうんざりしていたのか、大荒れだった上の世代への反抗か、妙に勉強に対するモチベーションが高かった。だから勉強ばかりしていても、それはそれでいいよねという空気が醸成されていた。僕は大して苦労することなく、勉強する自分を全うすることでようやく学校生活を安心して過ごすことが出来た。

 

勉強中心の自己形成は高校生になってからも相変わらずだった。尤も、それははっきりいえばただの教科書の先取りだった。皆が知らないことを先んじて知っておき、教える側に立つことに少なからぬ喜びを感じていた。

勉強をするために、独りで部屋に閉じこもった。上手く頭に入ってこないときは自分を殴ったりしていた。何も目指すものがなかったのに、頑張っている自分を自分へ向けてアピールして充足していた。もしもあの頃にツイッターに触れていたら「今日は不甲斐ない自分をぶん殴って切り替えました」とか若干の暴力性と意識の強さを雑に捏ねたクソみたいな呟きを一日10回は呟いていたことだろう。ガラケーで良かった。mixiでそれをやらなくて良かった。

 

大学生になって早々、勉強していたときのことを振り返る際に「頭良くなって」という形容をしてしまい、初めて会話した同窓生をドン引きさせた。そのときの冷たい視線がトラウマになって、その同窓生とは会話をするのをやめた。2ch歴も長かった僕は、自分の精神衛生を掻き乱すような人へは近づかず、判明したら即座に逃げる術を身につけていた。別に2chのせいってわけでもないか。関係を断ち切ることで、自分を守ることができた。自分を変えずに済むようにするのが僕の性格だったし、当時はそれを疑いもしていなかった。

 

自分の個性とし、至上命題として掲げていた、高校生までのあの一連の勉強は大学においてびっくりするくらい役に立たなかった。そもそもが、同級生たちからマウントを取るための、ただの知識の詰め込みだ。それらはシンクの栓を抜いたみたいに、ゴポゴポと勢いよく渦を巻いて消えていった。

知識を役立てる方法もあったのだろうけど、見つける気概もなかった。講義はやろうと思えばいくらでもサボることが出来たし、テストの過去問や対策法も種々手に入れることができた。というかフィードバックすらなかったあの授業とテストはいったいなんのためにあったんだろう。

同窓生は僕にノートを任せて次々と大学に来なくなっていき、人に胸を張って言えるような活動に勤しんでいた。僕はその手の活動を蔑む気はない。実家から通っていた僕はボランティアやアルバイトをする必要は無いという親の言いつけに素直に従っていたし、それでもやってみるのは勉強になるよと諭してくれた友人には曖昧な笑顔を返していた。

今は普通に社会人として働いているから、学生という身分でアルバイトばかりに精を出すのは本当に勿体ないとも素直に思えるのだが、当時の僕は妙にアルバイトに執着していた。友達伝いでようやく家庭教師のアルバイトをしていたのだが、それが一ヶ月ほどで破談になり、相手方の会社に連絡がつかなくなると、いよいよ自分への劣等感が募り始めた。社会的活動に勤しむ友人を見て頭が痛くなった。それでいて、栃木県の某所で行われるボランティア活動に参加申し込みをしながら説明会に行く足を突然翻したりした。無理してディベートのゼミに入り、あまりに何も出来ない自分に苛立ってウイスキーを煽ってトイレを抱いて朝を迎えたこともあった。

結局は、上を向いて自分に嘆いて、地に足つかないままだった。

時折自分へ向けて忠告してくれる人もいた。今にして思えば本当に優しい人たちだった。それを、僕は恥ずかしさから曖昧な笑顔で濁した。何も応えないこと、何も考えていないようにすること。僕の唯一の自衛策は無事、当然の帰結として、僕と他者との繋がりをジョキジョキ裁ち切ってくれた。

 

僕の携帯のアドレス帳は大学入学と同時に一気に増加し、一年目、二年目と過ぎて3分の1ぐらいに減らした。もう会わないだろうと思った中学、高校の友人はだいたいみんな消した。救いを求めようともしなかった。そのような発想が思い浮かばなかった。なんでわざわざそんな閉塞的な方へ向いたんだろうと思うけど、多分、自分を変えることが怖かったんだと思う。

引きこもっていた中学生の僕と、周りとの関係を切断しまくった大学生の僕との間に、何ら違いはないように思う。表だって反抗することをやめて、内面を誰にも見せない。ひたすら自分を守り抜く。そしてそのように生き延びている自分が嫌だった。

 

僕の価値観は、実のところ大学時代では治らなかった。ようやくまずいのではないかと思い始めたのは、社会人になってからだ。敬語の使い方がなっていないと怒鳴り込まれ、職場の人たちから白い目で見られ、同僚が異動する際に開かれる送別会の主催を異動する当人からお願いされたときに「それ僕の仕事なんですか?」と聞き返してしまって場を凍り付かせてから、ようやくだ。

こんな思いをしてまで自分を大事にする必要はないよな。

社会人3年目になって、僕は敬語の参考書を買い集め、口に出して使えるように通勤途中で訓練した。最初に否定語から入ろうとするのを唇を噛んで堪え、「はい」と「わかりました」に即座に変換するように努めた。言われたことを書き留めるためにメモを持ち歩いて、頼まれごとは全部受けるようにした。謝るとき意外にも、後々謝ることになりそうだと勘づいたらすぐに腰を曲げて頭を下げるようにした。

相手が自分だったら、と考えるようにした。自分だったら、どのタイミングで怒るだろう。不快に感じるのだろう。元々不馴れだったのは承知の上で、それでも自分を変えなくてはならなかった。気取っている余裕はなかった。この社会に溶け込むために、僕を取り巻く全ての人間が僕を責めているという大前提を元にひたすら必死で頭を下げ続けた。

未だに全うできているとは言えないけれど、働きやすくなったことは確実に言える。最初は面倒に思っていたことや、悪しき風潮などとこっそり愚痴っていたけれど、慣れてしまえば平気だった。今だから言えることかもしれないけれど、敬語や礼儀のコードは決まっている。職場に溶け込むことよりも、フリーの状態である学生時代の方が遥かにハードだったように思う。

 

先日、職場で忘年会があって、不意に〆の言葉を任される運びになった。何も考えていないです、適当にやりますと嘯きながら、本当は前日の夜から構成を考えて、笑いを取ったり、気を遣ったり、喋り通せる自分をイメージしてできうる限りの練習をした。

本番で聞こえた笑い声と拍手の音は、独りの帰り道でいつまでも耳に残っていた。

誰も傷つけないために、黙ることも、逃げることも、曖昧に微笑むことも、選ばなくていい。僕は言葉を選ぶことができた。四半世紀に渡り堆積し、凝り固まった、諦めきっていた苦しさが音も立てずに消えていった気がした。

 

今でもやはり、後悔は募る。どうして学生の頃にもっと相手を敬えなかったんだろう。どうして相手のことを自分と全く同じように大切にすべきと思えなかったんだろうと、過去を振り返る道中はいつでもささくれ立っていた。

気づかなかった自分を罵倒することはいくらでもできる。具体的な失敗事例を挙げ連ねてひとつひとつ否定して、だから自分はダメで、これからは頑張ろうと、いくつ意気込んでも終わらない。だって過去は変わらないからだ。失敗した自分を何万回、何億回責めたところで、失敗した僕が成功をすることはない。

 

だから、もういいんじゃないかな。

 

この2年間、僕は自分を否定し続けた。それはつまり、後ろばかり振り返っていたのと同じだ。そのお陰で他人に優しくできていた、というか、優しい人であるように見えていたのかもしれないけれど、自分自身を踏みにじることで手に入れた安寧は、褒められたものじゃない。

シンクの栓を閉めて、裁断ばさみは棚にしまう。そんなものはもう手にしなくていいんだと、自分に言い聞かせて、前を向こう。

 

 

 

明日からしばらく実家に帰ります。