雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

【感想】一人っ子同盟(重松清)

 自分が初めて重松清作品に触れたのがいつだったか、実のところ曖昧だ。

 大学一年生の暇な時期だったか、高校卒業間際の空白期間か、あるいはそれよりもずっと前のことか。

 とはいえ最初に購入した作品は覚えている。地元の古本屋の、漫画コーナーにおいやられるようにして鎮座していた文庫本の中で、『ナイフ』を手にした。それが最初だ。

 短編集であるこの作品のうちのある一作に、僕は強く心打たれた。そこには、当時の僕がなんとなく感じつつも、どうしても言語化できなかったとあるモヤモヤした気持ちが表現されていた。

 この人には僕の気持ちがわかるんだ。

 言葉にすると不遜すぎて、ちょっと寒いくらいだ。それでも僕の胸に湧いたのは純粋な喜びだったと思う。読むだけで胸に何かが込み上げてきた。後に読書にはまる一因がこのときの体験だったことはまず間違いないだろう。

 

 それからも折に触れて重松清作品を読んできた。

『ナイフ』と同時期に発表された『エイジ』、目を背けたくなる暴虐に吐き気を催しながら読み耽った『疾走』は後に友達に散々薦め、後輩からは『ビタミンF』を薦められた。

 就活の最中に『あの歌が聞こえる』を読み、新宿駅のカレー屋でひっそりと余韻に浸った。就活セミナーで乗せられて購入してしまった日本経済新聞に『ファミレス』が連載されているのを見つけたときは妙に安心してしまった。社会人になってからの初めての昼食には『見張り塔から ずっと』を持参した。

 その他、『トワイライト』、『流星ワゴン』、『カシオペアの丘で』、『日曜日の夕刊』、『ロング・ロング・アゴー』なども読んで、いつでも目頭が熱くなった。登場人物たちは多種多様で、質感だって違うのに、根っこのところが共通していて、それがちょうどツボにはまるらしく、不思議なくらい毎回泣いてしまっていた。

 

『一人っ子同盟』は、久しぶりに読む重松清作品だった。

 昨年刊行の本作品は、執筆時期も四年前。ほのぼのとした印象を受ける表紙に違わず、主人公の性格も、街や学校の描写も懐かしさを感じさせる。

 舞台となるのは昭和の後期。プライバシーが認知され公共施設や街のルールがこれから厳しくなることを仄めかしつつ、社会にはまだ十分なゆとりがあったことが描写から伝わってくる。

 当時、家庭は四人家族が当たり前だった。一人っ子なのは主人公ノブと、おなじクラスの公子、あだ名はハム子の二人だけ。最初にそのあだ名を口にしてしまい、けんかになったときから、二人は腐れ縁になり、六年生になる頃には、口やかましい級友から「一人っ子同盟」などと呼ばれてしまう。

 四月のある日、見知らぬ小さな男の子がハム子につきまとっているのをノブは目撃する。ハム子のことを「おねーちゃん」と呼ぶその子に対し、公子は決して「弟」とは呼ばなかった。

 また、同じ頃、ノブの暮らす団地には新しい四年生のオサムが入ってくる。オサムと仲良くするように、と母親から言われるものの、オサムの異様な雰囲気に圧倒され、今後の生活が脅かされるのではないか、と不安を抱く。

 

 ハム子とオサム、二つのワケありの家族に対し、ノブの両親、特に母親は相談を持ち込まれたりと度々関わりを持つ。ノブにしてもまたハム子に命令されたり、オサムのことが放っておけなかったりする。ノブと母親の類似点の面白さもさることながら、彼らと適度な距離感を保ちつつ、大事なところではアドバイスをもたらしてくれる父親も心強い。

 だが、ノブの家庭も問題がないわけではない。亡くなった兄の存在が、母親の心には常に残っている。兄のことを尊重すれば母は喜ぶ。だが、自分は全く覚えていない。ウソを吐くことの罪悪感をノブは一人、誰にも言えず噛みしめる。

 

 懐かしさともどかしさ。大人になりきれない自分への苛立ち、また大人に対する苛立ちが、ノブの心に度々沸き起こる。思春期よりもさらに前、子どもとしての悩みに真っ正面から立ち向かっている彼らの姿は、微笑ましいのを通り越して、いつしか凜々しく感じられた。何事も割り切れないハム子のことを子どもっぽいと笑うのは簡単で、だからこそ、改めて振り返るのが難しい。ノブの視点を媒介にすることで、ようやく僕も彼らの抱く、大切な物事を思い出すことができたと思う。

 

 物語の最後には卒業が待っている。

 だけど、読み終わった今でも、まるでノブとハム子がこの世のどこかにいるような気持ちがする。

 読み終わってしまったことが虚しく、それでいて嬉しい。そのような力のある物語でした。