雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

批判について

好きな小説は何ですかと聞かれたときには割とすぐに答えられるけれど、嫌いなのはどうかと聞かれるとなかなか上手くは答えられない。

もしも質問主の好きな作品を否定してしまったらどうしようとか、そういう後ろめたさからくる感情ではなくて、嫌いな作家と言われて思い浮かぶ人が単に少ないというだけだ。

 

苦手な作品はもちろんある。

高校生の頃に、僕にとっては親しかった人から小説を薦められて、興味深く手に取ったのだけど、それがまたとても合わなかった。世間的にも人気な作家で、作品がいくつも映像化されていたのだけれど、その人の文章を読んでいると頭がくらくらしてどうしても一気に読むことができなかった。

とはいえその作品が嫌い、というのとはどうも違う。確かに読むのは辛かったけれど、口を荒げて批判しようとは思わない。まあ、もうしばらくは離れていようか、って心の中でそっと誓うくらいだ。

実のところ、苦手な作家はたくさんいる。純文学と大衆文学の違いを念頭に置いたとしても、あまりに奔放な描写が惜しげもなく綴られたり、浮かび上がるイメージが綺麗すぎたり作り物臭かったりすると、しおりを挟んで一息つきたくなる。その一息が終わっても続きを読むことになれず、本棚に戻して、次に手に取るのは数年後、なんてことも多い。

数年をおいて読み返したときに、好きになる確率は、今のところ半々だ。二回目に手に取ったときにやっぱり合わないと確信したら、素直にブックオフへと運ぶことにしている。

もう読めないな、と感じた作家は数名いる。留保の作家が十数名いる。憎らしいと思うほど嫌ったことは一度もない。

 

読書の好事家が知識人として誰それの作品を批判するのを真似て、誰それを嫌いだと公言するのは、憧れはすれど、どうしてもできない。それほど真剣に誰かのことを嫌いになれない。読みたくなければ読まなければいいだろうと思ってしまう。

嫌いになるにはエネルギーがいる。ましてその嫌いの本質を調べ、批判を寄せるのにはただいな労力を要する。もちろんただ気にくわないから嫌いだと言ってしまえばすべて簡単なのだけど、先ほども述べた通り、合わないと思った作家が後々になって好きになる例もある。簡単に切り捨てて終わりにはしたくないものだ。

 

そもそも批判の存在意義はなんだろう。

批判という言葉には本来否定の意味合いはない。否定を担当するのは非難という言葉だ。批判には悪いことも良いことも、全てを客観的な分析して曝け出すことを主目的としている。

自分はこの作品が嫌いだ、というだけでは非難にすぎない。客観的な分析を施すということは、思考の中に自分を排斥することを意味する。自分というバイアスを覗いて、作品を説明するとき、何が良くて、何が悪いか。なるべく感情論にならずに語っていけば、真っ当な批判ができあがる。

 

多分僕は、僕の視点をそれほど信用していない。僕の持っている価値観は偏見に塗れている。冗談抜きで思うので、その歪んだ視点で見られた作品を率直に嫌いと言い切ることが恐い。歪んでいるのは僕の方かもしれないのだ。その作品を好きだと言っている人が多ければなおさら、非難できなくなる。ま、ここまでくるとただ勇気が無いだけにも聞こえてくるけれど。