雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

「話して考える(シンク・トーク)」と「書いて考える(シンク・ライト)」 (集英社文庫)

 私は『「新しい人」の方へ』のエッセイのひとつに、「本をゆっくり読む法」ということを書いています。そこで私は、最初に出した『「自分の木」の下で』につないで、こう書きました。《どうしても難しく、読み続けられない時は、もう少したってから、あらためて読む本の箱に入れておくといい。そして、時どきトライしてみることです。》

(p130 子供らに話したことを、もう一度 3 より)

『「新しい人の方へ』、『「自分の木」の下で』はともに大江健三郎のエッセイ集です。

 

 スタイロンは、自分はこれまで書いた小説を無意識の研究に使う気はない、それは文学研究家の仕事だ、といいながら、気がついてみると、自分は精神的な窮地におちいって死にいたる女性、というような人物を幾度も書いてきた、と正直な驚きを告白するところがあります。

(p235 暗闇を見えるものとする 3 より)

 

《私はこれから話し言葉化に巻き込まれるすべてを会話主義と呼びたいが、それが書かれた言説の一般的なスタイルと実質を侵すにいたっているのである。会話のかたちの断片的かつ並列的名性質が一般に現在の文化条件の特性となっている。座談会に出ることに慣れた人間は、書く時も同じようなやり方で考える。日本語の書き方のスタイルは、最近、根本的な変化をこうむりつつあり、その変化が原因であるにせよ、結果であるにせよ、会話主義は支配的なモードなのである。書き手は確かな証拠で支えるための努力をあまりしないまま主張を繰りひろげていいと考えている。会話においてのように、しみ通ってゆく同意と支持を当然だと思う。もし反対と面と向えば、かれらはつねに弁明して忘れることができる。》

(p257 タスマニア・ウルフは恐くない? 3 より)

エドワード・W・サイードの著作『文化と帝国主義』(一九九三年)のうち、日系アメリカ人の知識人マサオ・ミヨシの記述からの引用

 

 文学のテクストのみならず、あらゆるテクストに「文体」というものがあります。そしてそれは、当のテクストを書いている人が、どういう時に、どういう気持ちで、どういう読み手に向けて書いているか、を示します。そしてその上で、書かれている内容よりももっとはっきりと、どういう人間が書いているか、を表現してしまうものなんです。

(p304 講演集を文庫版にするに当っての、しめくくり より)