雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

それはただの美しさだった――『ヘヴン』(川上未映子/講談社)

 川上未映子さんの『ヘヴン』を読了しました。

  いつぞやのテレビ番組で、アイドル兼作家の加藤シゲアキさんが好きな本としてこの作品を挙げていた。

 そのときから気にはなっていたのだけれど、なかなか手に取る機会がないまま数年が経過。たまたまブックオフにあるのを見つけ、年明け早々に読んだ次第です。

 

 主人公の「僕」は斜視、そのことが原因で特に理由もなく苛められていた。小突かれたり叩かれたり、酷い暴力を振るわれたり、それが彼の日常だった。

 ある日「僕」は、筆箱の中に「わたしたちは仲間です。」と書かれたメモを発見する。メモの書き手は同じクラスにいるコジマという女生徒で、彼女はいつでも貧相なみなりをし、整えようともしない、浮いた存在で、女子からは苛めたり無視をされたりしていた。

 コジマが接触したことで、「僕」とコジマは親しい間柄となる。基本は手紙でやりとりをし、徐々にではあるが話すことも増えていった。手紙の中のコジマは明るく前向きで、学校の中のコジマとは次第に離れていくようだった。「僕」はそれを不審に思いつつも、交流は続け、二人で約束をして外で会うようにもなった。

 

 当初は同類と感じされた二人。だが、次第にコジマが“強く”なっていくのを「僕」は感じた。コジマが言うには、その強さは「僕」の態度を見てのことだという。苛められても、何もやり返さない。その態度の中に本当に大切なことがある、と主張する。弱い者にも生きる理由はある、と。

 

コジマに励まされれば励まされるほど、コジマが苛められながらもその態度に説明のつかないような、なにかちからのようなものを身につけてゆけばゆくほど、僕はコジマを直視できなくなっていった。それがなぜなのか、本当のところは僕にはわからなかった。まだ暑かったころの、コジマのいくぶん頼りない話しかたや困ったように笑う顔がどれだけ僕を安心させてくれていたのか、そう思うと僕の胸は痛んだ。しかしコジマは少しずつ変化をして、遠くからっその変化を感じとれば感じとるほど僕の身体はかたくなってゆくのだった。コジマのなかに生まれた変化は、コジマが僕に与えてくれた、小さいけれどたしかな明るさが満ちる場所に暗雲のように垂れこめ、そして僕自身はその場所からいつしかしめだされてしまったのだった。

(p244 『ヘヴン』)

 

 一方で「僕」の方にも新しい変化が訪れる。苛める側の一人、百瀬と偶然出会い、彼にどうして苛めるのか理由を尋ねた。百瀬は言う。苛めることに理由はなく、苛められることにも理由はなく、あるのはたまたまそうなる人とそうでない人がいるだけだ。

 

 やがてある日、「僕」は判断を迫られる。弱い者でいつづけるか、拳を振るって脱却するか。

 

 この世界に生きる理由があるか、ないか。弱い者とそうでないものという、はっきりとした二項対立が苛めを軸に描かれる。

 加えて、「僕」を苦しませる要素がもう一つある。物語の後半、「僕」の斜視は直せる可能性があることを示唆される。苛められる側から抜け出せるかもしれない。だが、それを選んでしまうことは、弱さこそが大切だと説くコジマを裏切ることにも繋がる。葛藤がよりキツくのしかかってくる。

 それ以外の点でも「僕」には、よく見れば救いが多い。斜視を直せると助言する医者もいれば、父親の後妻もあっけらかんとしつつ彼を支えている節がある。反対にコジマの方は、恒にコジマの口から語られるため本当のことはわからないが、八方ふさがりで、そもそも彼女自身が弱い者であることを自らに強いている。

 「僕」はコジマと次第に心離れていく。だが、彼女は「僕」にとって親友だった。そのことに変わりはないのだと、終盤は示してくれていた。

それは悲しみのせいで流れた涙ではなかった。それはたぶん、こうして僕たちはゆく場所もなく、僕たちがこのようにしてひとつの世界を生きることしかできないということにたいする涙だった。ここ以外に僕たちに選べる世界なんてどこにもなかったという事実にたいする涙だった。ここにあるなにもかもに、ここにあるこのすべてにたいする涙だった。

(p297 『ヘヴン』)

 

 ラストシーン、文庫本にして2ページ足らずの描写が胸に残る。斜視の直った「僕」が世界をどんなふうに見たか。最後の言葉はこの記事のタイトルなのだけど、どうしてそこに至るのか、ぜひ読んでいただきたいです。

 

 それにしてもすごいタイトルだな、と思う。『ヘヴン』。物語の中ではこの「ヴ」が「ブ」ではないと繰り返す箇所がいくつかあるけれど、その拘りこそ無意味なもの、と捉えるのは、穿った見方だろうか。かもしれない。