雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

(即興)「頂上にて」 (テーマ「目指す」 一時間)

以下、即興小説です。

 

 その山は毎日私たちの暮らしを見下ろしていた。このあたりでは随一の高さを誇っている。
 私の生まれ落ちたときからこのかた20数年、飽きることなく立ち尽くすその山は、古くは修験道の歩く場であったという。時が経った今となっては、寺社仏閣も蔦に絡まれ、かつての信仰の残り香を楽しむ廃墟となり果てていた。
 登ろう、と決意したのは、町の外へ出る日の前日の朝だ。起き抜けに暖かい陽射しを浴びて、小鳥の鳴き声を聞いていたら、まだこの町でしていないことがあると胸のうちがざわめいた。窓を開けたら相変わらずの山があり、此度の登山に踏み切らせた。
 登山といえども、決して登るのに難しい山ではない。中腹までの道のりは砕けつつも舗装されているし、中腹より登り詰める道にもところどころ木組みの階段があった。修験道たちの踏みならした道も、細くなりながら残っている。獣を追い払う鈴さえきちんと鳴らしておけば、襲われることも滅多にない。
 人通りのほとんどない山道を一歩一歩歩き進んだ。裾野では枝葉をめいっぱいに広げていた木々も、だんだんと窄まり、空を目指して突き上がる。葉の形も細くなっていく。空は開けてみているが、木々の数が多く、前後左右の視界は暗い幹にふさがれていた。
 道沿いに膝の高さほどの石を見つけた。斜めではあるが、表面は平たく、座るとひんやり、火照った肌を冷やしてくれた。一息ついて伸びをして、自分が疲れていることに気づいた。たいしたことないと思い込んでいたが、呼吸は確かに荒く乱れていた。
 水筒の蓋を外して、麦茶を注いだ。揺れる水面に細く目を開いた自分の顔があった。なんとも言えない顔をしている。木と土と、それ以外の何もない場所にいる自分。無駄に楽しげであるよりかは、いくらか自然なのかもしれない。なんとも言えない顔の浮かんだ麦茶を一息に飲んで喉を鳴らした。
 前髪を揺らす程度の風が吹き、遠くに気長な鳥の鳴き声を聞いた。足音がして、振り向けば、男が一人上から降りてきた。知り合いのMという男だった。
「珍しい奴がいるな」
 私をみるなり、Mは口をゆがめてにやついた。
「おかしいかい」
「いや、別にいいけど。山で見たことは今までなかったから」
「今日初めて登ったんだ」
「そうか、気持ちがいいだろうもうちょっと行けば中腹だぜ」
「脚を休めたら、また歩くよ」
 Mは私のとなりに腰掛けた。お互い話の得意なタチではなかったが、それでも一言ずつ拾い合って細々と会話を続けた。Mは軽装だったが、登山には馴れているらしく、この山は庭のようなものだ、と豪語していた。
「しかしまあ、上までいくのはお勧めしないよ。何もありゃしないんだから」
 これから登ろうとしている私に、そんな釘を刺してきた。
「何もないのか」
「そりゃ、昔のほこらとか、そういうのもあるけどさ、中腹までのがやっぱり、賑わうんだよ。人も多いし店も多い。景色だって綺麗だ。中腹に行ってとっとと帰る人も大勢いる」
「君も中腹から?」
「いや、俺は登った。何もない様を息も絶え絶えに笑い飛ばすのが乙なんだ」
 やがてMは石から飛び降りると、私に大きく手を振って道を下っていった。そんなに元気な奴だとは知らなかった。現実に、彼は教室では植物のごとく押し黙っている。山田からこそ彼は元気になり、私に声を掛けたし、私にアドバイスなんぞくれた。この山はきっと、彼に何かを与えているのだろう。
 私は登山を再開した。程なくして中腹に辿り着き、観光客のひしめく場所からなるべく離れた。地上から続くロープウェイで登ってきた彼らは、中腹を散策し、木々を眺め、町を見晴るかし、わいわいしながら帰って行くのだろう。
 中腹を越えたところで山道は変わらなかった。たしかに舗装はなくなった。木組みの階段もかえって脚に響く。ある程度登ったら休みを挟む。そうして一歩ずつ前へ、上へと進んでいった。
 木々はますます細くなった。本数もまばらになった。切り取られた空には雲が多い。雨が降らないようにと祈りながら、視線を無理矢理前へと向けた。
 疲れは溜っている。休んでも、歩き始めてすぐに汗が滲んだ。水筒が随分と軽くなり、身の危険を感じ始めたとき、風が止んだ。
 空が一等広がっている。続いていた道が、草原へとぶつかった。ここより高い地面が少なくとも近くには見当たらない。どうやら頂上であるらしい。
 景色はあまりよくない。木々の枝が周りを見通す邪魔をする。見えるのは空と、雲と、地表にぽつんと立ち尽くすほこらだけだ。石造りのほこらは崩れてこそいないものの、柱や壁にいくつもの蔦が絡みついていた。うち捨てられてもう何年も経つのだろう。
 廃墟を眺めているのにも飽きて、草原に寝転んだ。空しか見えなくなった。雲が散り、灰色にけぶる空。風だけは心地よくほおを撫でてくれた。
 頂上には何もなかった。Mの言ったとおりだ。何度も通っているMの発言が間違っているはずないのに、心のどこかで何かないかと思っていたらしい。
 とはいえ、頂上は元々頂上でしかないのだろう。苛立つのは、山に失礼だ。
 廃墟をあとにして、元来た道を転げ落ちないよう慎重に戻った。中腹まできて、ロープウェイの呼び子に惹かれたが、我慢してまた山道を選んだ。脚は痛むだろう。それでも、まだ裾野を目指して歩き続けていたかった。ただの痛みに変わるとしても。