雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

何か書く。

 よく眠れないので何かを書こう。

 

 小説を書き始める前の僕には何もなかった。何かを目標に立てて行動するという概念すらおよそ理解できていなかったように思う。

 小学校から中学校くらいの話か。学校の授業、といっても先生が出す問題、宿題をこなしていればいいだけの単純作業だ。テストもそう悪い点数は採らなかった。ろくに友達もいなかったから、復習に充てる時間が山ほどあったのである。

 友達はいなかった。作る努力はしていたが、悲しいほどに不器用だった。その頃の僕の頭の中では友達=傷つけ合わない者となっていた。軽く冗談を飛ばし合うことも、この定義からは外れる。相手を貶すような言葉遣いが親しみを表すということがどうしても理解できなかった。相手の感情を推し量ることもできず、自分を傷つけうるか否かで他人を峻別していた。結果、今をもってしても人見知りが激しく、他人の中に僕の知らない人生があることを思うと途方もない気分にさせられてしまうようになった。

 他人の人生を肯定する。これが人付き合いの基本である。つまり他人を、生きている一人の人間として、自分と同じような人間だと理解することだ。

 言葉でわかっていても理解するのは難しい、ましてそれを当たり前のように考えるのはもっと難しい。総じて僕は常に他人を恐れ、他人を傷つけまいとし、一方で他人から傷つけられまいとして生きてきた。得たものは顔にしみついた苦笑いと、ともすれば他人に迎合しがちな思考回路である。厄介なこと極まりない。

 このようにして、僕のコミュニケーション論は常に僕自身の欠点を編み出すところで終わる。これ以上は深堀できない。深みなどない。あるのはただ自分自身を傷つける思考の迷路だけである。

 

 後ろを向いてばかりいたら絶対に暗くなる。というのも、過去が暗いものだと僕が思っているからだ。もちろん楽しいこともきっとあったのだろう。でも深堀しているときにはそのことに思い至らない。だいたい自己不明確な意識のもとで過ごしてきたのだからろくな思い出もない。そのようにして過ごしてきた自分自身に嫌悪を抱いているのだから、これはなかなか肯定できないのである。

 この頃また妄想してしまう。すなわち過去にもっと貪欲であれば、人と接していれば、自分の感情を曝け出していれば、云々。よくある話だが、脳にとっては甘い蜜なのだろう。考えるのは確かに楽しいのだ。あのとき僕のことを冷たい目で見ていた人たちや、興味なさそうにそっぽを向いた人たちが僕の方を見てくれていたら、と考える。一方でそんなこと絶対になかったとも思っている。承認欲求は自分自身で即座に否定され、そしてまた求められ、その終わりはなかなか見えてこない。僕が精根尽き果てるまで続くのではないだろうか。

 とはいえ、こんなことを考えるのも僕の職場が学校という、ある意味この国の過去の象徴ともいえる場所だからだ。おかげでともすれば思考の触手が過去へとのびていく。僕のそこには何もないのに、何かがあればと考える。まことに不毛である。

 

 僕の小説を書くという行為は中学校三年生の頃に端を発する。面白いことに小説がまともに読めるようになったのも同時期だ。僕はろくに本を読んだこともない状態で文章を書き始めた。ゲームを禁止されていた反動で、お話を考える癖がついていたのだと思う。

 考えてみれば過去を脚色するのも一種のお話作りだ。僕は似たような遊びを昔から繰り返していたのだろう。そしてその手法が執筆活動のごく初期にも残っていた。

 

 今書いているものは何のためだろう。

 承認欲求のためでもあるが、さすがにもう書きなぐればいいとは思っていない。承認欲求だけのときは推敲さえしなかった。文章など整えなくても書き上げることそのものが目的になっていたからだ。それがいつのころからか推敲するのが当たり前になっていた。これというのも、もっと良い文章を書こうという気になったからで、つまり僕は執筆はかくあるべしという一家言をいつの間にやら有していたのである。何もやる気のなかった身としてはとても不思議だ。振り返ってみてそう思う。

 推敲の必要性云々はここでは別次元の話である。僕は整った物語を届けたいと思うようになった。僕の頭に浮かんでいる物語である。しかもそれは承認欲求を超えたところにある。とりあえず物語を読め。まずはそれからだ。こんな心境をなんといえばいいのか。

 面白いものを書きたい。とは思っている。もちろんだ。さてどんな面白いものにしよう、となるとなかなかまだ定まらない。いろんなものに手を出して、これなら書きやすいなとかいう感覚があるだけだ。

 書きやすいものを書く、というのもひとつの正解だろう。市販されている小説にだってその手のものはある。むしろ増えているんだろう。ぱっと読んでみてもそう思う。

 僕が気楽にかけるのは何か、と言われたら、すぐには答えられない。即興で書いた作品たちはある意味僕の感性をよく伝えてくれているだろう。しかし、その感性は決して練られたものではない。同じような書き方では長い物語はかけない。長いとはつまり、それだけ没入させられる物語という意味にも通ずる。長い物語にはそれだけの魅力があり、読み通せなくてもある程度までは首尾一貫としていなければならない。

 さてそれでは何を書こう。

 結局そうして腰を据えないと何もできなくなってしまう。

 だいたい僕自身が発展途上なのでまだまだ人間として反省すべきことも多い。お説教めいたことも言えず、ただ黙々と生きている。だから物語の中でもなかなか結論が出せずにいる。結論が出ないものはかけない。書いても落ち込むだけだ。

 

 そろそろだいぶ眠くなってきたので終わりにしたい。

 内容も大したことは言っていない。後半なんてねぼけている。何も考えずに書き始めるからこういうことになる。

 平和に平和に、こつこつと。書いていきたいものだ。

 そしてなるべく、面白いお話を。