雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

『街場の文体論』感想、及び二四歳の所感

 このたび無事誕生日を迎える運びとなった。折りしも三日ほどかけていた内田樹さんの『街場の文体論』が読み終わったので、簡単な感想を交えて二四歳の所感をつらつらと語っていこうと思う。

 

 『街場の文体論』は、著者の大学で開講していた「クリエイティブ・ライティング」の全14講をまとめた内容で、手が加わってはいるものの、六割ほどは実際に語った内容と変わりないという。語り口調もそうだし、話の筋があちこちに飛んでいく具合が、実際の講義を受けているようで、読みながら学生気分に浸れて楽しかった。目的ありきでない文章を読んだり話を聞いたりする機会は、この頃すっかり減っていたからね。

 心に残った文章や、覚えておきたいと思った箇所はたくさんあったのだけど、ぱっと思い出せるのは、「オリジナル神話」というタイトルで語られていた部分。オリジナル神話というのは、ざっくりいえば他人には目もくれず自分の感性を大事にするという思想が講じて他人に感化されてはいけないと強要する考え方のことで、ピュアを目指すもの。ナチュラル思考にも通じるかな。その神話に従う結果、他人を模倣することはせず、自分の身体感覚でのみものを語るようになる。そうすると人は知っている言葉で全てを話すようになり、すごいもまずいもすべてひっくるめて「やばい」になるし、ちょっと自分とは合わないかなと思ったらすべてが「微妙」になる。漢字はどんどん制限されるし、意味内容を無視した漢字ひらがな混じりの単語も出てくる。そして言葉がどんどん貧しくなっていく、というお話だった。

 こことは別の箇所だけど、他人の存在を自分の中に入れることができて、俯瞰する視点も持てる者が大人であるとも述べていた。他人を自分の中に入れるというのはつまり自分の見識を広めることだという。先に挙げた言葉の貧しさへの危機感と合わせて、自分一人だけの世界に閉じこもってちゃいけないよと諭されているような心地になった。

 逆に驚いた箇所としては、文体論というタイトルだけど内容は全然文体論じゃなかったことかな。というか文体論と聞いて俺が思い浮かべていたお話じゃなかった。とはいえ、文体論なんてものはどんな本でもほとんど碌でもないものであり、むしゃくしゃしたときに衝動買いして読みながらいらいらするのが常のなので、このような形で意表をつかれたのはむしろありがたいことだった。却って面白い本に出会えたのだから。

 思い返せば生まれて初めて買った新書は内田樹さんの『日本辺境論』だった。内容はすぐには思い出せないのだが、これもまた面白く読んだ記憶がある。高校生に入りたての頃だったかな。とりあえず本を読もうとして買ったうちの一冊だ。本棚にちゃんとあるといいな。

 

 文体論と名のつく本を衝動買いする程度には文章の書き方に興味がある。小説を書くうえではもちろんそうだし、普段の文章を書くときにもやたらと文章の組み立て方を考えるようになった。とはいえいつでも深く考えているわけでもなく、まして小説となると書くのがだいたい夜なので深く考えることもできず、だいたいこのぐらいでいいやと書き流すことの方がすっかり多くなってしまっている。よくないことだと思いつつ、せめて休日の昼間に書ければなと淡く願うに留まっている。

 言葉を自分のものにする、というのをしばらく考えていた。ちょうど『街場の文体論』にも同じ話が出てきていた。小難しい言葉を辞書で調べて書くだけでは、その言葉は自分の言葉じゃない。定型的な言葉や小難しい言葉は、その意味を実感することはできない。だからといって自分の知っている言葉だけで書くというのは、辞書を引かない分自然に書けているのかもしれないが、それでもやっぱりベストではない。

 いろんな人の言説を見てきたし、自分の言葉で書けという至言も山ほどみてきたのだけど、それでも新しく知った言葉を次々に自分のものにしていくようでないと貧しくなる一方なのではないかと思う。これは語彙力の問題でもあるし、発想力や、思考能力、認識の問題でもある。自分の言葉だけで書くというのは、元々自分が自信の無い性格であることを差し引いても、どうしても不安がぬぐいきれない。

 こんな不安を抱くのも結局は他人の言葉に惑わされているからだ。対立する意見の間で板挟みになっている。楽に書くか、学びながら書くか、その二つのうちのどっちを選ぶかで悩んでいるのは俺であり、他人の意見は参考に過ぎず、俺は俺としてどちらかを選ばなければならない。すると、楽に書けばそりゃいくらでも書けるけどちょっとね、と思っているのだから、辞書くらい引こうよと思い至る。

 

 言葉の使い方は何も文章を書くだけではなく、話すときにも重要で、むしろある程度のスピード感がなければなりたたない会話でこそ言葉を選ぶ能力が必要となる。即答なんてものは話しなれていないと到底できるものではない。何事にも通じることだけども身体で覚え込んだものはいつの間にかできるようになっている。仕事の中でそう感じることがたびたびあった。

 むしろ身体で覚え込むってことを長い間していなかった。いつ頃からだろう。子どもの頃は遊ぶにしても何にしても身体で繰り返して覚えていた。勉強してもノートやメモなんか全然とらなかった。やり方とかを逐一質問したりもしなかった。それでよかったのかといえば、良い面もあり、良くない面もあり、だったとは思う。感覚だけで生きていられるのはどうしたって子ども時代の頃だけだから。それでも身体で覚える方法を少しずつ思い出した方がいい。何事かでもいいから、見つけたら反復するといい。

 このような内容を実感する事柄がここ一年でたくさんあった。近いところで言えば日記をつけることとか、部屋の掃除をすることとか。やってみたら案外続く。妥協したら続かない。その区切りは本当に容赦が無い。

 

 何を書けば良いのか悩む、というのはもはや毎日のことであり、頭の中の通奏低音となっている。何でも良いから書けば良い。それは正しい言葉で、学生時代と比べたら忙しいからといっていては何もできないし何も変わらない。

 一日に何も無いと感じるのは考え方のせい、と教えてくれたのはどこかの僧侶の書いた本だった。過ごしている間に周りで何かが起きている。本を読み切ったときには何かを学んでいる。それらがただ時間とともに薄れていくのは、なるほど確かに忍びない。自分が何を知ったか、感じたか、もっと大事にした方が良い。

 これはいつも思っていることだ、と俺はここに書く。だが、もうそれもだめなのだ。書くだけで済ませたら何も変わらないので、知っていたからといって誰にも威張れるものじゃない。そういう時代は終わり、というよりも、終わらせなくちゃならない。

 

 この前ツイッターが勝手にアプリ連携されていて、URLが勝手に書き換えられる仕様になっていた。びっくりして書き換えられたツイートを削除して、URLをなるべく表示しないようにツイートしようと考えた。そしたら呟くことがほとんど無くなった。冗談じゃなく本当に、俺はどうやら引用ばかりで語っていたらしくてびっくりしたし、これはまずいなと結構深刻に思ったりもした。

 

 だらだらと書いてきたけど日付が変わったのでもうそろそろ投稿する。一年の振り返りみたいなのは、多分どうせ年末にするのでそちらに後回しにするよ。