【エッセイ】jazzの興り
大学四年生のときに、友達からの誘いで他学部の授業に潜り込んだことがあった。
講義のテーマはアメリカ音楽。特にジャズとロックの話だった。
僕は音楽が不得手で、知識もなかった。
それでも興味が湧いたのは、大学時代を通してロック好きの友人がいたり、話を聞いたりして、何やら不思議な魅力があるらしいぐらいのことは感じていたからだろう。
降って湧いてきたきっかけに、就職活動も終わっていた気楽さも手伝って、僕は友人の誘いに乗った。
授業の初めに毎回出席を取っていたので、おそらく僕らが他学部だということはバレていたに違いない。
それでも何も言われずに聞いていられたのは、運が良かったのか、講師の方の気まぐれだったのか。
講義の内容は、ジャズからロックに至るまでの歴史の話だった。
途中途中で音楽試聴を挟み、本当に楽しげに話す講師の姿が印象的だった。
楽しいと言っておきながらあれだけど、友人は三回ほどで来なくなり、私も終わりの方はサボってしまい、流れ作業のように、僕は大学を卒業した。
社会人になりたてだったころ、仕事上がりに書店に寄ると、たまたまジャズの特集が売られていた。
例の授業を思い出していた僕は、その雑誌を買って読み耽った。隔週発刊だったので、購読予約をし、一つ一つ買いためていった。
その雑誌の購読も、書店の閉店とともに立ち消えになった。
今は、当時仕込んだジャズの知識や、話を見たり音楽を聴いてえた印象を後生大事に抱え込んでいる。
知識はアップデートされていない。おそらくは浅薄なところで止まっている。
だけど、受けた鮮烈さは未だに脳裏に残っている。
当時、僕はとある投稿サイトに自分のジャズへの思いを書き殴ったことがあった。
思うに、今までの人生で一番奔放に書いた文章で、読み返すと結構恥ずかしい。
それでいて、勢いの良さが気に入っている。
今日は、そのときの僕が抱いていた思いを、少しだけ蘇らせてみたいと思う。
黒人の本能的リズム感と西洋音楽の融合がジャズを生んだ、というのがジャズの興りだと基本的には説明される。
黒人というのは奴隷のことだ。
アフリカからの移民である彼らはアメリカ南部に連れられた。農場や工場で汗みずくで働きながら、彼らは掛け声を上げ続けた。
本能の赴くままに誰かが歌い、誰かが合いの手を入れる。
そのようにして身体に活力を漲らせる。
頭の中は音楽で満たされ、嫌なことは忘れて、とにかく動かしていった。
少し脱線するけれど、人はどうして歌うのか、考えたことはあるだろうか。
クジラやイルカも歌うというし、気持ち良さげに唸る犬や猫も、歌っていると言えなくもない。
発声機関のない生物は、身をくねらせて音を出す。
とにもかくにも、何かの気持ちの上がりがあると、理性を離れて身体が動く。
音が出る。気持ちよい音が連なって、理論以前の音楽が成り立った。
何も調べずに書いてみたが、存外違わないのではないだろうか。
西洋で育った音楽と、アフリカ移民の口ずさんだワーカーソング(労働歌)は、毛色が違っていた。
僕のざっくりした解釈によると、西洋の音楽が想定する音階と、アフリカ移民たちのそれは、ある箇所で半音ズレるらしい。
階段で喩えると、調子よく一段ずつだと思っていた階段が突然飛び出したり、引っ込んだりするという。
西洋の音楽を期待していた人たちは、アフリカ移民たちの耳慣れないリズムに驚き、ついで面白がった。
その音階はやがて「ブルー・ノート」と呼ばれることにある。
どことなく憂鬱な印象を受ける、アフリカ移民の本能的音階だ。
アメリカに住む西洋人は、このブルー・ノートを面白がったが、世間一般には差別の色が濃く、表だった舞台には出せなかった。
時は1920年代。この時期、黒人たちとはまた別の意味で表舞台に出られなくなったものがある。
酒だ。
1920年に施行された禁酒法は、表の街から人々の娯楽を奪った。
もっとも、この法律は人目に触れなければいいというもので、多くの酒場は地下へと移動した。
日の当たらない暗闇の中で、酒を飲み、酔いが回る。
理性を失った人々は本能を煽る音楽を欲した。
黒人ミュージシャンを呼び、言いつけるわけだ。酒に似合う音楽で、とにかく場を盛り上げろと。
同時期、世間にはラジオが登場した。
電波の届く範囲なら、どこへでも音楽は届けられる。
蓄音機の発明もこの動きに拍車を掛けて、レコード産業が発達し、ジャズへと目をつけた。
この時代は「ジャズ・エイジ」と呼ばれる。
1920年代から、世界恐慌の終わるまで、ジャズは急速に白人社会に受け容れられていった。
とはいえ、このときに誕生したジャズは、あくまでもBGMだった。
難しい技法も、テーマ性もいらない。
場を盛り上げるためのジャズこそが好まれた。
難しいことや知識は、本能に反する。
高度な技術で場を白けさせることは、ミュージシャンには許されていなかった。
盛り上がるためには、音は大きい方がいい。
はたしてそれだけが理由ではないだろうが、ジャズの編成は徐々に大型化していった。
いわゆるビッグ・バンド・スタイルだ。
おそらくジャズと聞いて、このスタイルをイメージする人もいるのだろう。
とにかく垢抜けていて盛り上がる、大衆向けのジャズ。
それでも良かったのかもしれない
。人々に好かれるための音楽のままでいることも可能だった。
そして、歴史の示す矢印は、偶然、その向きを反対に変えた。
当時を代表するジャズ・ミュージシャンとして、デューク・エリントンを挙げておく。
彼が作曲した「A列車に行こう」は、僕の記憶では音楽の教科書に載っていたし、実際多くの人が聞き覚えがあるのではないだろうか。
同時にこのA列車が繁華街へ行く地下鉄だと知っている人はあまりいないのかもしれない。
デューク・エリントンの”デューク”は「公爵」を意味する。
ニックネームで、幼少期からいつでも紳士然としていた彼の態度から名付けられたという。
黒人ではあったが、彼は白人社会の中で毅然と振る舞い、ピアニストとしてデビューすると、二度の世界大戦を生き抜いて数々の名作を編みだしていった。
そのデューク・エリントンは、ジャズという呼び名を好まなかったという。
自分の音楽に誇りがあったからだ。
ミュージシャンとして自分が演奏する音楽が、ただの娯楽では終わって欲しくなかったのである。
BGMにすぎないと思われていた音楽が、世間の固定観念の壁を突破するにはどうするか。
聞き流しは許してはいけない。
その場にいる誰もが耳を向け、目を釘付けにし、流れている音楽が芸術作品であると認識するには、どうすればいいのか。
結果は、頭だけで考えては生まれてこなかっただろう。
その始まりと同じように、おそらくは本能的に。
ジャズミュージシャンたちは文字通り、立ち上がった。
ビッグ・バンドの音を抑えて、まずは注目を集める。
痺れるような緊張感のただ中で、西洋生まれの楽器を巧みに操り、思うまま、気の向くままに吹き鳴らす。
即興。
五線譜では追いきれない速度と予定に縛られない自由な変化で、jazzはこの世に高らかに産声を上げたのだ。