雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

【エッセイ】雨と青空

何かの映画のオーディオコメンタリーで、雨のシーンで本物の雨に降られて迷惑だったと苦笑する場面があった。

作品の中に登場する雨は、そこには陰惨さとか悲壮感とか葛藤とか、あるいはもっと単純にそのとき雨だったことが布石・伏線になっていたりとか、とにかく雨を降らせるうえでの意味が込められている。

つまり情景描写だ。

特に必要がないならばすんなり晴れていてほしいし、中途半端に本物の雨が混ざると意味が変わってきてしまう。

余計なイメージが付けたくない、というのがそのコメントの意味するところだったのだろう。

 

現実の天候は人間の感情とは無関係に変化する。澄み切った青空は映像としてはとても明るくて、悲しい場面には使いにくい。

だからといって、誰かが泣いているときにしょっちゅう雨になっていると、気づいてしまったら、あっという間に作り物感が増して見ていられなくなるだろう。

映像方面での、心象的な描写、撮り方は、陳腐化との戦いだったんじゃないか、と思ってみたり。お約束の打破ですね。

 

 

文章は、絵が出てこない分マシだけど、それでも同じ表現を使ったり、同じシチュエーションばかり出て来ると、違和感が強くなる。

これはどちらかというと、なんか気づいたら夕陽ばかり見上げているなとか、書いている僕自身が気になってしまうことだ。

そんなわけで、表現を改めようと思うのだけど、これが案外難しい。

五感を使ってとかよく言うけれど、視覚と聴覚で感覚野の九割を占めるわけだし、むりやり味覚とかをねじ込むのも無理がある。

視覚といっても空ばかり見上げるとあれなので、人を見つめたり、建物や道具、交通機関とか、あっちこっちに視線を飛ばしてみて、どんどん散漫になったりする。

嫌になって結局消す。こうして逃げてばかりいたから今でも情景描写は苦手です。

 

書いていて思ったのだけど、例えば青空で悲しさを表現することも可能なのかな。

澄み渡る青空が逆に寒々しく感じられたり、人々の満足そうな顔と自分との隔たりを感じたり、そもそも青という色そのものに、吸い込まれて戻って来られないようなイメージを重ねたり。

言うは易く行うは難し。やってみないとわからない。やりたくなるようなシーンが来ないかな。なんて待ちの姿勢で構えているとなかなか現れないものです。