雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

他者と自己についての日記

 ゴールデンウィークなので実家にいる。明朝には職場近くの住居へと帰る予定だ。 

 実家は小学校と目と鼻の先にある。本気を出せば通うのに1分も掛からない好立地だが、小学生の自分は嫌がっていた。他の子たちのような、小石を蹴ったり寄り道をしたりして小一時間ほど歩く家路というものに憧れを抱いていた。今にして思えば学区内はほとんど畑だったので碌なことはできなかったはずなのだが、小学生の自分は他者と違うことに過敏になっていた。

 他者を意識していた一方で、僕は他者を排除もしていた。もっと有り体に言うと他者を自分と同じ生きた人間だと認識していなかった。他者は自分を傷つけうる存在で、自分は他者からの報復を受けないように行動しなければならない。そんなことを考えていたものだから中学生のある時期に精神の糸が切れてベッドから起き上がらずに『らせん』をひたすら読み込んでいた。もっとも読み切れなかったのだけれども。

 心療内科に何度か通院した僕は再び中学校に通い始め、授業を受けた。勉強さえしていれば今ある環境から脱せられる。受験が始まれば勉強していることは必ず報われると信じてひたすら教科書を読み込んだ。受験が始まると志望校別でのグループみたいなものができ、僕も同じ高校を志望する人と受験という話題で対話をすることができた。僕はもうそれだけで嬉しくてまるで人間として認められたかのような気持ちになっていた。グループの中で進学塾に通っていた人たちは無事に合格し、僕は落ちた。受験は手段であり目的ではなかったので想像していたよりも哀しくはなく、むしろ卒業という話題を手に入れて周りと対話する契機を手に入れこれまた自己認識を高めるに成功した僕は、卒業後、たまたまオープンスクールに参加していた比較的近場の私立高校に通うことになった。

 僕が他者のことをもしかしたら敵じゃないのかもしれないと思い始めたのは高校生のときからで、それでも自分の矜持を保とうとひたすら勉強をした。このときの勉強は手段の範疇を超えはっきり目的となっていたので、大学に進学した際には無目的となり、勉強の仕方さえわからないくらいの恐慌に陥り虚無感に苛まれ、ただ共通の話題が欲しいためにアニメを見たり、所在なさに皇居の周りをぐるぐる回ってランナーに追い越されたりしていた。ぐるぐる回って辿り点いた神保町で何も言わなくても書籍と触れ合える環境に妙に感化され、文学フリマを見つけて足を運び読書家になろうと決意した。以来環境が変わっても読書だけは続けていられているのは誠に幸いというほかない。

 気がついたら本も書いていた。もっとも最初に書いたのは中学生のときで、ノート三冊ほどを費やして児童文学めいた何かを書いてぐしゃぐしゃに潰したのちは2ちゃんねるでSSを書いていた。その後自分が真っ当な人間であるという認識が再び揺らぎだした大学三年生のときに再びネットの中で小説を書くようになった。何かを吐き出したかったかもしれないが、当時の作品群を自分で見つめ直しても何がしたいのかよくわからない。ただひたすら自分ではない何者かになりたかったのかもしれない。それもできるだけ多種多様な何者かにだ。きっとその何者かは正体が判明してしまえば死んでしまうような便利な奴だ。

 そうして僕は僕の世界観を押し広げるために小説を書いていたのだけれども、自己の拡張を手段として新しい何かを得ると言うよりは拡張そのものが目的なのでそれ以上には勧められずいくつもの作品を途中で放棄した。短編ならなんとかなるかと思ったのだが社会人になり仕事が始まればとても即興では書けなくなった。これで諦めることになるかなと思ったのだが、何だかんだでむらむらしてある程度計画性をつけて作品を書いている。

 先日『響~小説家になる方法~』という漫画を読んだ。マンガ大賞を受賞したとかで有名であったのだが、どストレートで小説家になる方法などと書かれると、果たして自分は本当に小説家になりたいのだろうかという疑問からもなかなか読む気になれずにいたのだが、この連休中ならと気分が大きくなった手にし読み進めた。主人公はつまらない小説をつまらないと切り捨てる。独りよがりな作品には独りよがりだと言ってやり、言いたいことが見つからず迷走する作家にはなんで生きてるのかと問い詰め、目的を見失った小説を上梓した友人には敵意すら示し、上っ面だけよくして懐柔しようとしてくる輩は全員蹴飛ばし、ぶち切れて真顔になるといい顔になったと褒めそやす。名言はされていないがこの主人公にとってみれば小説は自分の気持ちを載せるものであり、自分にウソをついている小説は悪だということなのだろう。だんだん行動が派手になるのでちょっと置いてけぼりを食らいそうにはなったが、心を込めて向き合っているのにウソをつかれるのがいやだという気持ちには共感し、言っていることには背筋が伸びる思いだった。

 自分が書きたいものはなんだろうと改めて考えると自分の悩みにぶつかる。それは冒頭で述べたような人間関係であり、他者との関わり方であり、自分という存在をどのようにこの世に定義するか。ずっとそればかりに考えて身もだえして普通になったか普通でないかそればっかりを主眼にして疲れ仕事に打ち込んだりもしたのだが、やっぱり小説を書きたいと思い、実家に戻っても小説を読み、こんな文章を書いている。何を目的にして書き始めたのか。『響』の感想文にしようかとも思ったのだがそれにしては私的な内容が多すぎるので自重する。それでも何らかの影響はもたらされているし、それは何かといえばやはり何を書いていこうかという問いに端を発しているのだと思われる。

 そんな感じで他者を突き詰めていこうとしたところに、先頃『友だち幻想』(菅野仁)という新書を読んだ。友達は全てまやかし、お前は一人きりだ、などという強い人間志向の本かと思ったのだが、実際にはそんなことはなく、友だちが自己と同一であることはありえないと断言してくれ、無理して付き合うものでも作るものでもないということを教え諭してくれる良書だった。学生に語りかけるような文体で、出版年は2008年。ちょうど自分が高校生のときである。自分に投げかけられた言葉でもあると解して、やはり背筋が伸びる。昔聞いたことを今思い出したという体にすればいつでも影響を受けられるのでお薦めですよ、などと嘯く。嘯くと言ってみたいだけですが。

 他者と自己は違う。それならば、他者になり他者になろうとしていた僕は、何になれていたのだろう。もしかしたら何にもなれず、それどころか気がつかないうちに自己を浮き彫りにしていたのかもしれない。細々と書いているうちについたいいねやブックマークの数、ちょっとした感想に何も感じなかったわけはない。僕で無いものを生み出したつもりがそこには僕が見え隠れしていて、僕が見つかると嬉しくなった。それでいて僕を隠そうとしていたので苦しくもなった。そんなところなのではないだろうか。

 まとまりもない文章を最後に締めくくる言葉をなかなか思い浮かばなかったのでここまでダラダラ書いてしまったのですが、明日が仕事であることを思い出したのでこのあたりで失礼します。憂鬱、憂鬱。