雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

「対等」論考

時々対等な関係に憧れる。

今までは、自分が碌な人間関係を築けずにいた反動で、対等な人付き合いに憧憬しているのだと解釈していた。

ただ、いつまでも憧れてばかりでも変わり映えしないので、ここでひとつ、「対等」について考えてみたいと思う。

 対等な関係とは

対等な関係、僕が思い浮かべるのは、「ライバル」「均衡」「同質」「同程度」だ。

シーソーがあるとして、その両端に人を載せる。何らかの基準において釣合が取れている状態をイメージしている。

 

何らかの基準には何を入れてもいい。たとえば軍事力でもいいし、品質でもいい。これから先の文章でも、基準ではこの二語を用いようと思う。

 

対等でなくなるとは

対等でなくなることは良いことか、悪いことか。

この一文だけでは何も決められない。対等であるというのは客観的事実でしかない。善悪の判断は主観に寄る。自分が対等な関係の内側か外側か、また内側だとして優位か劣位かで判断は変わる。

 

まずは自分が対等な関係の内側にいて、さらに均衡が崩れ、相手が上になった場合。

基準が軍事力であるならば、自分は恐怖を抱くだろう。身を守るために行動を起こす。自らの軍事力も高めるか、仲間を増やして対抗できるようにするか、いずれにしろ策を弄する。

基準が品質であるならば、その品質改善により自分の製品が選ばれなくなるようであれば、恐怖は抱きうる。他にも悔恨や、追いつこうという野心も抱くかもしれない。

 

次に、自分が対等な関係の内側にいて、さらに均衡が崩れ、相手が下になった場合。

基準が軍事力であるならば、好機とみて昂揚する。あるいは、ひとまず安心だと安堵する。基準が品質だとしても相違ないように思う。商戦意欲が高いならば好機と捉えることだろう。少なくとも、自分に悪影響はないと見て安堵する。

 

もうひとつ、対等な関係の内側にいたが、均衡が崩れ、相手が関係の外側に行ってしまった場合。

具体例を挙げるとすれば、品質でいえば、これまで争っていた企業が品質指向を止め、低価格等の別戦略を掲げるようになったとする。同じように低価格にする、などの対策ももちろんありうるが、品質という面において、自分があせることはない。その分野において、相手はもはや争う意識はないのだから、恐怖はない。悔恨も不似合いだろう。安堵はありうるかもしれない。もっともありうるのは、侮りではないだろうか。

 

ここまで考えたところで、どうも対立ばかりを考えすぎているように思えてきた。もっと優しい行為、たとえば「褒める」という動作を、対等な関係から導きだせないか。

 

すぐに考えつくだろうと思っていたのだが、意外にも難航した。「褒める」という動作と、「対等」な関係が、意外にも噛み合わない。これが何故なのか考えるには、「褒める」という言葉の意味についても考えてみるべきだと思った。

 

褒めるとは

[動マ下一][文]ほ・む[マ下二]
1 人のしたこと・行いをすぐれていると評価して、そのことを言う。たたえる。「勇気ある行動を―・める」「手放しで―・める」「あまり―・めた話ではない」⇔そしる/けなす。

デジタル大辞泉より)

これが「褒める」の意味だとすると、気になる言葉が混じっている。「行いをすぐれていると評価」しているという文章だ。

「すぐれている」という言葉は優位に通ずる。反対に劣位がある。褒める対象の人・ことにはすぐれている点があり、すぐれていない他者の存在を想定している。

 

すぐれているという言葉は、対等な関係にそぐわない。

先に例としてあげたシーソーで、もし片方の人物が基準においてすぐれているという評価を得たとする。シーソーは必ず、傾げる。少しだけでも、すぐれた人物は上に動く。

自分と相手が均衡であるならば、その均衡は崩れる。同質であるならば、すぐれているという言葉は使われない。変化がなければ優れはしない。

 

褒めるという言葉は、相手が優れている、あるいは優れるようになった場合に使われる言葉だ。均衡である状況に、褒めるは使われない。代わりに恐怖、悔恨、安堵が使われる。

もっとも、これは自分がシーソーの片方に乗っているからこそ成立する考え方だ。シーソーからそもそも外れていたら、均衡を気にすることはない。いくらシーソーが動こうとも、自分には関係のないことだからだ。褒めることも、自分の立場を危ぶまない限り、比較的容易に可能となる。

 

自分の立場があるからこそ、相手を褒められなくなる。逆にいえば、自分の立場を忘れれば(忘我すれば)、相手を褒めることがしやすくなる。

 

対等を求める心理

改めて、対等とは何か。

結論を先に言ってしまえば、自分を安定化させる考え方だ。

独りでいる人は、自分の立場が不安定である。上の立場に人がいればなおさら身の置き場に困る。喩え下に人がいるとしても、自分がその人より上のどこかにいるというだけで、不安定であることに変わりはない。

仮に対等な人物がいれば、その人を自分の鏡として立ち位置を確認することができる。その人が身を置いている場所に自分もいれば、安定する。これはつまり、自分がそこにいてもいいのだという安心感だ。

 

自分の安定。その指向は、自分の視点があるからこそ成立する。

安定自体を批判するつもりは毛頭無い。むしろ、僕はそういった安定を常に求めて思考しているのだと最近強く意識している。

ただ、ここで仮に、自分の視点から離れてみたらどうだろう。

 

褒める=認める

まずひとり、自分の得意とする分野ですぐれた他者が目の前にいるとする。

自分を安定化させることはひとまず忘れる。対等であろうとはしない。恐怖を抑える。

そのうえで、すぐれた相手を前に、何をするか。

相手に興味がないなら褒めなければいい。興味があれば褒めることだろう。重要なのは、相手に恐怖を抱いてお世辞として褒めるのではなく、自分を忘れ、相手のすぐれた点を評価するために褒めるということだ。

 

行いには指向があり、努力が伴われている。褒めるとは、その努力を認めることだ。

 

では、認めるとは何か。

 [動マ下一][文]みと・む[マ下二]

  1.  目にとめる。存在を知覚する。気づく。「人影を―・めた」「どこにも異常は―・められない」

  2. (goo国語辞書より)

 ひとまず1とみなす。目にとめる、存在を知覚する、気づく。

 

指向や努力は他人の目には見えないので、行為主体である他者は往々にして不安に駆られている。自分が本当にその方向に進んでいいのか自信がつかないでいる。

褒めるという行為は、指向や努力の存在を知覚したことを伝えることだ。なので、相手は褒められたことにより、自分の指向や努力の存在を再確認する。それが正当な評価の対象だと認識し、自信をつけることができる。

 

認めるという行為と似ているようで違うのが、断定だ。「○○に違いない」とか「○○するべきだ」とか、決定することで、事物をはっきりさせる。

「認める」と「断定する」の大きな違いは、相手の意識の有無だ。

断定するのに相手の意識は必要ない。断定する主体は自分であり、相手がどう考えてようと、それは判断材料に過ぎず、自分が思ったことがそのまま断定となる。

一方、認める、つまり知覚するのに、自分の意識だけでは不十分だ。相手の指向があって、努力がある。そして、それらを知覚することで初めて「認める」という行為が可能となる。

 

対等から抜け出す

先に、対等とは自分を安定させる考え方であると述べた。

相手が自分と並び立っているからこそ、自分の立ち位置を確認することができる。自分の正体がわかる。だからこそ、自分がそこにいてもいいのだという自覚が生まれる。

 

だが、対等を意識している限り、相手も、そして自分も、変化することができない。あるいは、変化により必要以上に恐怖を感じてしまう。

 

これを避けるためには、どうすればいいか。

もっとも単純に考えれば、対等でなくても良いという認識を持てばよいのではないか。

 

相手が変化したとする。その変化を、主観に立って、恐れることもできるが、客観的な視点に立つことも可能だ。

自分の立場を忘れ、相手そのものを見る。相手の指向・努力を想像し、認め(知覚し)、すぐれていることがあれば評価する。

 

対等な関係を意識の外にすることで、むしろ自由に、相手に想像を巡らせることができるのではないだろうか。

 

ただし、想像には知識がいる。それでなくてもある程度の興味はあった方が良い。

対等な関係とは、すなわち、自分の知見が及ぶ範囲での安定だ。それを放棄して、相手に身を寄せる。その際に、せめて相手に興味を抱いていれば、より過ごしやすくなるのではないだろうか。