雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

夏をゆく人々

 先日神保町を歩いているときに不意に映画が見たくなり、岩波ホールに潜り込んだ。普段映画を見るのはだいたい家のパソコンか、イオンシネマみたいな家族連れのわんさかいる大型の劇場かでしかなかったから、ビルの最上階を締め切り厳かな雰囲気の中で鑑賞するのがとても新鮮だった。

 そこで見たのが、『夏をゆく人々』だった。カンヌ国際映画祭グランプリ受賞だとかチラシに仰々しく書かれていた。

 

 解説も何も読んでいないから、感じたことをそのまま書こう。

 

 まず内容を軽く書く。

 

 イタリアの中部に古くから続く養蜂の家があった。父親と母親、そして四姉妹。社会には馴染まず、トスカーナ地方の田舎でこつこつと生きていた。ある日、テレビ番組「ふしぎの国」の取材クルーがやってくる。長女ジェルミニーナはテレビに出演できるチャンスに期待を寄せるが、父ヴォルフガングは冷めた態度だ。ぎくしゃくする家庭に、今度はひとりの荘園が連れてこられた。彼は犯罪を犯していたが、つても優秀なため、人里離れたこの地にて更正のチャンスを与えられたのだ。仕事の担い手にもなるからと、ヴォルフガングは彼を引き取った。古い伝統を守りながら続いていたひっそりとした生活が、少しずつ変わろうとしていた。

 

  派手なBGMはないが、展開は想ったよりも豊富だった。都会と田舎との狭間で揺らぐジェルミニーナの心境は終始落ち着かず、そのことがかえって作品全体に緊張感をもたらしていた。都会には憧れているが、一方で養蜂家の長女としての責任もある。仕事のできが悪くなれば苛立ち、必死になって成果を上げようとする。そんなときは大好きな音楽だって邪魔になる。責任の重さを感じつつあるということ、憧れと距離を置きつつあること。少女から大人への過渡期をこのような形で表している。率直に言って綺麗だと思った。

 伝統的な田舎暮らしの閉塞感、代わり映えのなさはもちろん日本人でも大いに理解できることだ。でも、少しだけ違うなと思い、感心したことがある。

 父ヴォルフガングはもう見るからに頑固者で、テレビ番組の取材も「くだらん」と一蹴する男だ。僕は日本のホームドラマに出てくるような頑固なおじいちゃんとかによくある、世間の騒がしさを嫌がり距離を置いて自分の世界に固執するキャラを想像していた。ところが、ヴォルフガングはテレビの取材に対し、散々言葉を迷ったあげく、こう言う。「今世界は終わりつつある」と。つまり彼は世間に目を閉ざしているわけじゃない。世間をはっきりと見据え、その上で終わりを認識し、世捨て人になっているのだ。ただ嫌いだからとむくれているのとは訳が違う。

 賑やかなテレビクルーたちは立ち止まり、司会の女性がすぐに言葉を切り替え、ヴォルフガングは自分の話が途切れたことに不満げながらも腰を下ろす。テレビクルーたちは賑やかしなのだから、当然世界が終わるなんて映したくないのだ。

 テレビクルー=世間だと考えれば、世間とは終わりを遠ざけたがる存在として映されている。一方世間を退けるヴォルフガングは、終わりを認識している。だからこそ、養蜂の家庭を連綿と続けることに固執する。伝統を守り続けることに意義を見いだしている。

 だけど、きっと撮影している監督のテーマはその更に上をいく。守り続けても、やがて何もかも失われる。それがあの、異様なほど寂しいラストシーンなのではないかと思った。