雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

笑いについて

 不快だからやめろという論法はその結論に主観が混じっている時点で論理として不適切であり、そればかりか相手を貶す意味合いも含んでいるのだから聞かされる側もつい論理をかなぐり捨ててしまう。論じているフリをして論じさせなくするツールであり、平和な生活を営みたいならばごく私的な空間でない限りは口にしない方が賢明であるはずの内容だ。それくらいのデメリットはわかっていても言いたがる人がいるのは、自分の主観が混じった意見を残すこと自体に快感を覚えるからかもしれない。誰だって自分が生きて考えたという爪痕は残したいと思うものだ。それで人が動くなら万々歳。ありがとうの言葉を百個並べたりしなくとも。死ねの一言で何百人もの人々を動揺させ、悲嘆させ、憤慨させることができる。誠に手軽というほかない。

 

 悲劇よりも喜劇の方が作るのは難しい、と前にどこかの本で読んだ。悲劇は時を隔てても同じだが、喜劇における笑いのポイントはその多くが時代に影響されてしまう。『ヴェニスの商人』はユダヤ人を迫害するし、落語の舞台設定は江戸時代が基本形である。現代しか知らない人が昔の喜劇を読んでも、その時代に対する理解がなければピンとは来ない。

 笑いは時代に流される。それはなぜかと僕なりに考えてみれば、笑いの根底に仲間意識があるからではないかと思う。

 自分と違う人を見かけたらつい笑ってしまうことは誰にでもあることだと思う。禿げのことをなんとも思わない人は禿げのことを笑う。なぜなら禿げを貶すことで禿げとは違うグループに所属する自分を強く意識するからだ。逆にその人が、たとえば身体障碍者だとか外国人だとか夜逃げしている最中の深刻な顔をした親子連れだったりすれば、笑いだす前に倫理観が働いて衝動を理性で抑え込む。笑うことを禁じている自分たちのグループのことを強く意識して迎合する。笑っても構わないグループに所属しているという意識の方が強ければ平気で笑う。

 感情の中には、自分で持つというよりも、環境によって持たされているものがある。笑いはその最たるものだ。

 そしてその感情の中でも笑いはとりわけ環境の影響を強く受ける。環境に溶け込む自分という安心感があるからこそ笑うことができる。逆に周りが敵だらけだと感じてしまう人は上手く笑うことができない。

 果たして一人っきりの人間は笑うことができるのだろうか。

 

 論を勧めるには笑いの目的について考える必要があり、ひいては笑いについて定義づけする必要まで出てくる。人は何をもって笑いとするのか。顔の筋肉を綻ばせ、大口開けて声を出すことだろうか。しかし微笑むときの人は大声も出していないし口だってそう開いていない。顔の筋肉は緩むかもしれないが、別に笑っていなくても緩むときはある。たとえば、寝ているときに張りつめている人はいない。

 議論をするほど今は時間があるわけではない。備忘録というか、一種のメモとしてこの文章を残しておく。人を笑わせたいと思っても、なかなかなれるものではない。