中華まんの話
こしあんとつぶあんならばこしあんの方が好きだった。
味の問題ではない。粒が残った状態であることがどうしても好きになれなかったのだ。
どんなものでも塊があるのならばできる限り漉してしまいたかった。飲み物に浮かんだ氷やら、雨上りのグラウンドに散らばったら泥団子やら。これは生得の欲求だったと思う。特に何かを意識することをした覚えてはなかった。
漉すことが悪いわけではないだろう。綺麗な状態でありたいと考える人はいる。僕なんて本当はずぼらなので、どうしてこの欲求だけ立派に持ち合わせることができたのか不思議でならない。
ただ、漉す意味が本当にあったのかと後から思い返すことも多い。今の僕はつぶあんだってもちろん食べられる。粒を含めてそういう食べ物なのだと認識して食べられる。むしろこしあんだとすっきりしすぎて物足りない。
いつから嗜好が変わったのかはっきりしない。知らないうちに、自分の持っていた小さなポリシーがただの偏見に思えてきた。綺麗に漉さなくてもものは美味しい。塊なんて捨ててしまっても誰も気にしないのだと気づいてしまってから、塊を残すことにも抵抗がなくなってきた。
最近はどうだったかと考えてみたが、そもそもあんまん自体をほとんど食べていなかった。シーズンである冬の間、買う機会があっても買うのは大抵ピザまんだとか、そんなものだ。
あんまんはいつだれが頼むのだろう。その人はつぶあんもこしあんも気にしない人なのだろうか。気にしていたら、きっと中華まんは頼まないだろう。