雲に鳴く。

趣味の小説書き、雲鳴遊乃実のブログです。個人サークル『鳴草庵』

気づかないうちに広まっていた断絶について――『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ』(辻村深月)

疑問に思うのは、いつでも選択する時期を過ぎてからだ。そのときは、それが唯一無二の答えであると信じて疑うことができない。

 

 『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ』(辻村深月)は地方で暮らす女性に焦点を当てている。

 母を殺した友人の行方を追うところから始まる冒頭部から、インタビューのような形式で謎に迫り始めるが、決して事件の解決だけに拘泥はしない。第一部より中心となって登場するみずほ自身、地方の母親と確執があり、友人の事件を追いながら自らも省みる。地方を出ることができた自分と、出るという発想すら持てなかった友人との埋まることのない距離感が悲しみとなって立ち込めている。違いをもたらすのは旧態依然のままか、今風の考え方ができているかどうかだけだというのに。

 実際、ちえの家は問題があったと言えるだろうか。少なくとも数十年前ならばこちらの方こそが日本のスタンダードだったのではないだろうか。女性の社会進出が標榜に掲げられる世の中になり始めて、スタンダードがそうでなくなってくる。今までよしとされていたものがイレギュラーとなる。ちえの母親が何を考えていたのかは明示されていないが、新しい世代と今の世代との齟齬が根本にあるだ。

 

 新しい世代として僕が意識しているのは個人主義ということだ。ことに女性については主婦の立場から脱却して一人の社会人たるべきとされ、自立の代償として生活スタイルの大幅な変化を求められている(まるで教科書みたいな物言いになってしまった)。作中でキーワードとなる赤ちゃんポストもその変化の中で現れた必要性だ。

 個人主義の側からすれば、旧態依然の考え方は敵視すべきものとなる。自立と、依存の対立だ。

「自分の人生の責任を、人に求めて不満を口にして終わり。そんな生き方、楽じゃないですか。与えられるものを待つだけ、自分で選ぶのではなくて、選ばれるのを待つだけなんです。

p230

 

 家族だからと何かを許し、あきらめ、呑み込み、耐え、結びついた家。形は違っても、どこもみな共通に抱える病理のような。

p298

 

 正直なところ、読むのが辛かった。地方で暮らす身として感じるところは多分にあった。前に『冷たい校舎の時は止まる』を読んだときも、「これは進学校の人にしかピンとこないだろう」と思い、自分が進学校出身であることも相まって感動したのだが、今回は地方出身の点でピンポイントな感動(というかダメージ?)を食らわされた。正当な評価は、今を持ってなかなかできそうにない。

 

 お母さんたちから、すごく大事に育てられてきたんでしょうね。誰かに拒絶されて、それを自分の中で咀嚼して立て直す過程を全然通っていない感じがする。――今、私に言われたことも、傷つくことを言われた、って、家族に泣きついて終わりなんでしょう?

 辛い……

 

 もちろんこの小説は一方的に旧時代の考え方を貶しているわけじゃない。それはもう、タイトルが鮮やかに証明している。このあたりの伏線回収の上手さはミステリに造詣が深いことに由来するのだろう。どんでんがえしというほどではないにしても、謎が解けたときの面白さがあり、新たな意味を付与して感動へと昇華する。上手いなあ。綺麗だなあ。

 もうひとつ触れておきたいのが、第二章に登場する翠だ。語尾に「~ナリ」なんてつけちゃう大学生は浮いているように見えるかもしれないが、その部屋に漫画が散乱していたり、大学とは馴染めず通わず怪しげなバイト先で店長と懇ろしていたり、そういうフィクションめいた要素の裏側を覗かせる描き方は辻村深月らしい。『スロウハイツの神様』に出てきた加賀美もそういう裏側を感じさせるキャラクタ(ゴスロリ趣味だが内情は激しく、綺麗事を糾弾したり)だった。このような造形を単なるキャラ小説の先駆とするのは大いに問題がある。キャラであると同時にキャラを俯瞰する、これこそリアルな若者の人物像じゃないか(もっともちょっと狭い界隈に限定しすぎている気はするけれど)。