ブログを再び動かすについての反省と計画性への希求
すっかりブログ放置させてしまったので一応の反省をしてみる。
だいたい僕はブログを始めるたびに「よし、今日起きたことをとにかく書き留めよう」と思ってしまうのだから、よくない。どんなブログにもカテゴリわけぐらいはあるものだから、そうなると読書記録は読書記録、感想は感想、雑記は雑記ときっちり揃えて書きたくなる。
自分のホームページのコンテンツを作っているようなものだ。ホームページはある程度まとまった情報を載ってるものだが、ブログはいつでも気軽に更新することが可能な性質なので、内容を意図的にそろえるなんて奴とは反りが合わない代物だ。一度でも更新が滞ったら面倒になってしまう。まあ、これは僕が顕著なだけかもしれないが。
今日は本を買ったとする。そしてブログにそのタイトルを逐一並べ、読み終わったら感想文を垂れる。それ自体はいいことだが、義務化しちゃったら疲れるだけだ。やめておこう。
このたびブログを再び起動したのは、アルファポリスにも登録したし、『input celector』の方でサイト名としてここを載せてしまったものだから、動かしていないと悪いかなと思ったからである。
難しいことは書かないだろうし、書いている時間は無い。書きたいことは小説に書いていくつもりだが、正直なところ普段からそこまで頭を使っているとは言い難い。ノリで書いている部分は多々ある。
書きたいこととはつまり考えていることだ。それがうまく思いつかないってことは、考える余裕がなくなってしまっているんじゃないだろうかと思う。
ちょうど『村上さんのところ』で情報をシャットダウンすることが提案されていたので参考にしたい。
情報が多すぎると受け手であることに必死になってしまう。本を読むならまだしも、インターネットで適当に笑える動画を漁ったり、まとめサイトを巡回する癖はそろそろやめたい。受ける事柄が多すぎる。こういうのは意識をもたなきゃ止められないのだと最近仕事を通じてわかったりもする。
本当なら先のことを考えられる人間になりたい。これもまた仕事を通じて学んだことだが、先のことを読まないと忙殺される。ペース配分がうまくできないからだ。これは趣味にも通じている気がする。だらっと享受するだけなら、休日はあっという間に過ぎていく。計画的に行動する習慣は想像するほどには暗くなくて、むしろ明るく前向きに生きていくためにも必要なのではないかと思う。先のことを考えないのは、なんの取り柄にもなりはしない。