『鉄道員』を引用して冒頭部の練習をしてみる。
『鉄道員』の冒頭(P9)を引用する。
美寄駅のホームを出ると、幌舞行の単線は町並を抜けるまでのしばらくの間、本線と並走する。
ガラス張りのリゾート特急が、一両だけのキハ12形気動車を、ゆっくりと眺め過ごすように追い抜いて行く。
ダイヤのいたずらか、それとも都会のスキーヤーのために用意された演出なのか、特急の車窓には乗客が鈴なりになって、朱い旧国鉄色の単線ジーゼルを見物している。やがて幌舞線が左に大きくカーブを切る分岐まで来ると、特急の広いガラスごしにはいくつものフラッシュが焚かれるのだった。
十八時三十五分発のキハ12は、日に三本しか走らぬ幌舞行の最終だ。
「ふん、いいふりこきやがって。なんも写真まで撮ることないしょ。ねえ、駅長さん」
若い機関士は節減を別れて行く特急をちらりと振り返ってから、助手台に立つ仙次を見上げた。
「なあにはんかくさいこと言ってんだ。キハ12っていったらおまえ、今どき文化財みやいなものだべ。中にゃわざわざこいつを見るために内地から来んさるお客もいるべや」
「したらさ、なして廃線にすんの」
「そりゃおまえ、輸送密度とかよ、採算とか、そういう問題だべ」
- 一段落目は幌舞行の単線の様子を客観的に示している。俯瞰でもある。
- 二段落目も客観的。リゾート特急とともにキハ12形気動車の名前が初めて登場し、「ガラス張り」と「一両だけ」の対比や、「眺め過ごす」という言い回しが上下を感じさせる。
- 三段落目もリゾート特急とキハ12形気動車についての描写だが、視点がより車体に近づいている。二段落目で感じさせていた差の具体的な例示となっている。
- 四段落目でキハ12が田舎を走る古びた電車だと判明する。
- 五段落目は台詞、六段落目と合わせて機関士の登場となる。言葉に混ざっているように駅長の仙次との関係性がわかる。
- 七段落目以降は仙次と機関士のやり取り。彼らがこの冒頭部の主役なのだとわかる。
『悪魔』の冒頭(P89)を引用する。
僕は、悪魔を見たことがある。
信じようと信じまいと、歪んだ日本の角と巨きな翼を持ち、全身を濡れた黒い毛で被われた悪魔を、僕はあの日、たしかに見た。
僕の生家は、山の手の邸宅街の中でもとりわけ目をひいた。
たとえば隣り合わせの原っぱで野球をする子供らは、貴重なボールが築地塀を越えて邸に飛び込んでしまったら最後、頼みこむことも忍び入ることもできなかった。そこで近所に友人のいなかった僕は、歓声が聴こえ始めるとグローブをはめて庭に出、ボールが飛びこんでくるのをいつまでも待つものだった。本当は一緒に野球をやりたかったのだけれど、それは堅く戒められていたので、姿の見えぬもう一人の外野手になってファウル・ボールを投げ返すほかはなかったのだ。
僕は小学校五年のなかばまでその家で暮らした。記憶がいつも落日の風景のように、赤いフィルターで被われているのはなぜだろう。それはおそらく、邸がうっそうと繁る櫨と桜の森の中にあったからだと思う。一年のうちのある季節、池も芝生も築山も、回廊をめぐる古い武家屋敷の母屋も離れの西洋館も、みな赤く染まった。
その男が玉砂利の道をたどって唐破風の玄関に立ったのは、そんな季節のたそがれの時刻だった。
- 一段落目と二段落目は現在の話だ。悪魔について言及するこのふたつの段落以降は昔の話となる。
- 三段落目は主人公の生まれた家を客観的に見せている。
- 四段落目は家の大きさの説明で、合わせて主人公の孤独な日々を仄めかす文章にもなっている。長く見えるが、実際はみっつの文章で構成されている。一文目は客観的な状態の説明。二文目は主人公の行動。三文目は主人公の心理。
- 五段落目は家の説明に戻る。赤に染まる佇まいの説明がよっつの文章でなされている。
- 六段落目から物語の核心の男、つまりは「悪魔」の登場となる。物語を始める上での舞台説明が終わり、クローズアップされるところだ。
総括
- ひとつの段落は案外短い。
- 段落が変わるときは何かが変わっている。視点だったり、時間だったり、講堂だったり、何かが起こって初めて段落が変わる。
- 客観的な説明の中に、主人公の立ち位置を示すものがひっそりと含まれている。